△リチャード・バーンズ・・・・・・・・・・・・・

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BBC Sport said at 26 November 2005,07:09 GMT ;
Richard Burns, who won the World Rally Championship in 2001, has died at the age of 34
after a long illness, on the fourth anniversary of his title win.


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(左)三菱時代、(右)スバルに復帰後、年間1勝ながらタイトルをもぎ取ったリチャード


あちこちのブログでも、すでに記事になっていると思いますが、かねてから脳腫瘍で療養中の2001年度WRCドライバーズ・チャンピオンのリチャード・バーンズ選手が、療養の甲斐なく、11月25日この世を去りました・・・享年34歳。

2003年最終戦グレート・ブリテンの直前に彼は病に倒れ、検査の結果脳腫瘍であることがわかりました。懸命の治療の結果、一時は奇跡的な回復を見せ、2004年夏には一時退院し、その年の8月にはラリーイベントに姿を見せるほどになったのですが・・・病状は再び悪化し、・・・ラリーフィールドへの復帰は結局かないませんでした。そのあたりが、同じ脳腫瘍でこの世を去った元広島カープの「炎のストッパー津田恒実投手と二重写しになって見えます・・・。

WRC104戦に出場、スバル、三菱、プジョーの3つのワークスチームで活躍し、通算10勝。病に倒れた2003年もセバスチャン・ローブペター・ソルベルグとともに熾烈なタイトル争いをしていただけに、本人や関係者の無念はいかばかりだったでしょうか・・・心からご冥福をお祈りしたいと思います。


リチャード・バーンズといえば・・・まず思い出されるのが1993年、プロドライブに加入し、エロネックス(イギリスの大手システムインテグレータ)・カラーのスバル・レガシィを駆ってイギリス・ラリー選手権の最年少チャンピオンに輝いたこと。この年の全英選手権は全部で5戦・・・そのうちの4戦に総合優勝というまさにぶっちぎりのタイトル獲得でした。

翌94年からは引き続いてプロドライブからWRCにレギュラーで出るようになりますが・・・まだその頃は「めちゃ速いけどクルマも壊す」荒っぽさが目立ち、プロドライブはまるでコリン・マクレーをもう一人抱えているようなものでした。

それから・・・なぜかはよく分からないけれど、今でもよく覚えているのは・・・1995年のサファリ・ラリー。

この年のサファリはWRCの年間ラウンド数削減のためのローテーション制(1993-1998の間くらいだったでしょうか)のため、WRCから外れた(2リッター前輪駆動車のメイクス選手権のみ得点対象)いわばノン・チャンピオンシップ戦で、一般にはTTEのサポートを受けた藤本吉郎氏が日本人初のサファリ総合優勝に輝いた一戦として記憶されていることと思います。

このときのリチャードは日本のスバル・ディーラーチームからグループNのインプレッサでエントリーしていて、初日は藤本吉郎のセリカ篠塚建次郎のランサー以外の全てのグループAに競り勝って3位につけていました。
当時の「Rally X」誌には・・・「これがグループNマシンの走りなのか。バーンズはサファリロードを見る者に戦慄さえ覚えさせる全開アタックで駆け抜けた・・・・」とあります。

しかし2日目、全開アタック中のリチャードの前に現れたのは・・・コースをふさぐようにして停まっていた3台の一般車・・・サファリは他のスプリント・ラリーイベントと異なり、コースがクローズされておらず、一般車の出入りは自由だったのです(ですからそういう特殊性が敬遠されて2002年を最後にサファリはWRCから外されています)。

リチャードはその3台のクルマを見つけたときは170km/hオーバーで疾走中。懸命のブレーキングも間に合わず、クラッシュ・・・それでも当時のラリーXには「ケガ人が出なかったのは幸いだったが」とあるのには驚きます。リチャードのテクニックが卓越していたのか、それとも運がよかったのか・・・。いずれにしても彼のインプレッサはフロント部分を全損させて(「Pirelli World Rallying No.18 日本語版」より)立ち往生、そのままあえなくリタイヤとなってしまいました。

今でも強く印象に残っているのは・・・「Rally X」誌に載っていた3枚の写真です。顔全体を怒りと悔しさでゆがませ泣いているリチャードの顔のアップ、まさに飛ぶように疾走している彼のインプレッサ、そしてパーツを積んで僚友の許へ文字通り4輪全部を浮かせて吹っ飛んでいくマッド・ドック三好秀昌氏のインプレッサ・・・。フォトキャプションには「間に合ってくれ!」とありました・・・。

これらの写真を見た時に根拠もなく感じたのは、「彼にはいつかきっとコリンとは違う意味で”化ける”時が来る・・・はず・・・で、化ければきっとワールド・チャンピオンになれるはず」ということでした。でも、リチャードが化ける日まで、チームの方は待っててくれるのだろうか・・・?

95年のシーズンが終わると・・・やっぱり「うちにはコリンは一人で十分」ということだったのか、リチャードは一旦スバルを離れることになります。


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カーナンバー5・・・2001年にタイトルを取ったインプレッサWRCのミニカー


スバルを離れたリチャードは、その後3年間を三菱でトミ・マキネンのナンバー2として過ごすことになります。そして3年目の1998年サファリで95年のオトシマエを付けるWRC初勝利をマーク、続けて最終戦グレート・ブリテンで三菱に悲願のマニュファクチャラーズ・タイトルをもたらす2勝目を置き土産に、翌99年からはプロドライブに復帰するわけですが・・・果たしてリチャードはスバルのエースとして「化けて」いました。

持ち前の速さに加え、ステディに結果も残す強さも備わり、4度のタイトルを誇る帝王ユハ・カンクネンと組んだ99年、本来ならエースのカンクネンを食う存在感を次第に見せるようになりました・・・しかしワールド・チャンピオンになるのにはまだ苦難の道が待っていました。2000年、リチャードは序盤で3勝をマーク・・・だれもがこの年のタイトルは彼のもの・・・と思ったはずでした。しかしシーズン後半は大失速・・・最終戦グレートブリテンで4勝目を挙げるものの、タイトルはプジョーグラベル要員としてシーズンを迎えたはずのマーカス・グロンホルムにさらわれてしまいます。

翌2001年・・・やっとリチャードに「その時」・・・ワールド・チャンピオンシップを制する時がやってきました。この年は優勝はわずかにニュージーランドの1回のみ・・・しかし4回の2位がモノをいい、マクレーマキネングロンホルムの3人の年間3勝ドライバーを押さえラリー史上に残る混戦を制しました。この時、リチャード・バーンズ30歳。

続けて2002~2003年はプジョーに移籍、優勝こそなかったものの、ステディに上位に食い込むねばり強さでいずれの年もタイトル争いに加わりました。病に倒れた2003年にしても、展開次第では「0勝チャンピオン」という前代未聞のある種愉快な記録をマークする可能性も・・・。そして、2004年からは三度目のプロドライブ入りが決まっていたのですが・・・。


リチャード・バーンズは・・・言うなれば彼のラリーストとしての全盛期に突然キャリアを断たれた・・・ということができるでしょう。彼の療養生活が長引くにつれ、「事実上の引退」とは前々から言われてはいました。でも、ラリーは何もWRCだけがコンペティティブな場所ではなく、ERCだってレベルの高い国内選手権だってあるわけだし、ラリーレイドという道もあったと思います。どんな形であれ、病が癒えていつか必ずラリーフィールドへ戻って来ると思っていただけに、月並みですが、「残念」というほかありません。

ですから・・・ここで「さよなら」とは敢えて言わないでおこうと思います。
その代わりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。



リチャード・バーンズ・・・・・・・・・・フォーーーーーーーーーーーーーーーー!!