◆1995.01.17 05:46am

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1.17希望の灯り 東遊園地




彼らをぼくらは悼まない。誰ひとりできはしない
かれらを想起することは-- かれらは生まれたのか、
遁れたのか、死んだのか? 寂しがられる
こともないのがかれらだ。欠けたところのない
この世界、しかしこの世界が崩れずにいるのは
ここに住まいせぬものによって、
消えたひとびとによって。かれらはどこにでもいる。

不在のひとびとがいなければ、存在するものはない。
はかないひとびとがいなければ、堅固なものはない。
忘れられたひとびとがいなければ、何も確かなものはない。
消えたひとびとは正しい。
そのようにぼくらも消息を絶つ。

ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー Hans Magnus Enzensberger 「消えたひとびと」より
(長田弘アウシュヴィッツへの旅」冒頭)

*H.M.エンツェンスベルガー 1929年ドイツ生まれの詩人・思想家。戦後ドイツを代表する詩人として「ブレヒトの後継者」ともいわれる。主な著書に「政治と犯罪」「何よりもだめなドイツ」「ヨーロッパ半島」(評論集)「タイタニック沈没」(詩集)等。



阪神大震災は笑えた!
死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?
(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)
でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然、騒ぐほどじゃないし。
阪神大震災は笑えた。まじで
【後略・・・】
2ちゃんねるコピペより「阪神大震災は笑えた」>

●「阪神大震災は笑えた!のガイドライン」(過去ログ倉庫)
http://ton.2ch.net/gline/kako/983/983853969.html
●「Fence|2ちゃんねる 踏み絵の謎」
http://fence.jugem.cc/?eid=60




確かに前線にいるのに、ボルケナウもオーウェルも、前線の風景をまえにして、自分が確かにいま前線にいるのだという実感がうまくつかめない。この二人が期せずして、つづけて次のように書いているのは、印象的だ。

「前線にきてみて、わたしはいくぶんおかしい気もちで、外人記者が血にまみれた戦闘の記事を書いているのをおもいだした。それは数万の兵士のあいだでたたかわれているようにおもえたのだ」(ボルケナウ)「戦争においていちばん怖しいことは、戦争について書きたてられることが、悲鳴も嘘も憎悪も、すべてじぶんは戦闘に参加しないひとの口からでるということだ。普通の戦争記事も、興奮した大げさな記事も、敵に対する中傷も、すべて戦闘には参加しないひとたちによって書かれた。いつの戦争でもおなじことだが、戦闘をするのは兵隊であり、叫ぶのがジャーナリストである」(オーウェル)

これらの言葉の照準が、今日もなお、たたかいについて語られるわたしたちの周囲のおおくの言葉についてぴったりとあわさったままであることを知ることは、無残だ。問われているのは、みたいものをしかみようとしないわたしたちじしんのことばのありようなのである。みたいものをしかみようとしない言葉のありようが、戦争にかかるジャーナリズムに、最大の不幸こそ最大の報道価値だというしかたでの表現をゆるす。賛戦の言葉についてはいわずもがな、今日、反戦の言葉すらも、しばしばそれにみあうかたちで、最大の不幸こそ最大の反戦価値だという意識をはたらかせてなりたっているのを読むことは、苦痛だ。

長田弘アウシュヴィッツへの旅」"カタロニア幻想行"より 太線部は原文では傍点:以下同じ)




死者とは、わたしたちにとって誰だろうか? わたしたちとは、今日死者に問いかけるものなのだろうか? そうじゃない、とわたしはみえない死者をそこにみつめながらおもった。問われているのは、わたしなのだ。死者に問われていることを自覚したとき、「この時代のそとに追い払われたからこそ次代に生きのびる」死者こそ、わたしを問いかけるものとなるのだ。「なぜなら」と、わたしにおしえてくれたのは、ほかならないベンヤミンだった。「過去の一回かぎりのイメージは、そのイメージの向けられた相手が現在であることを、現在が自覚しないかぎり、現在の一瞬一瞬に消失しかねないのだから」

長田弘アウシュヴィッツへの旅」"墓地-死後の生"より)

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)ユダヤ系ドイツ人の文芸評論家。ホルクハイマー、アドルノブレヒトらと親交を結び、文芸評論のかたわら、ボードレールプルーストの翻訳も行う。1940年ナチス・ドイツがパリへ進駐、亡命のためスペインへ逃れようとしたが、国境の街ポル・ボウでスペイン入国を拒否され、睡眠薬を大量に飲み、自殺する。代表作に「複製技術時代の芸術」「都市の肖像」「ドイツ・ ロマン主義」「ゲーテ親和力」「一方通行路」など。




-今日ほんとうに恐しいのは、それらの恐怖と悲惨の記念品であるより以上に、わずか26年前の信じがたい大量虐殺をすらもはや現在において観光の対象としてしまっているわたしたちの戦後というもののありようではないのか、これはまちがいだ、わたしたちの戦後は「記憶」というものをこんなふうなしかたでひどくまちがったものにしてきてしまった、この、正確に配慮され、デザインされ、整備された展示品は何か、壁におおきく引き伸ばされた写真は何か、この、真新しい毒ガスの籠の模型は何か、新たに補強されたコンクリートの白い床は何か、どんな説明もとうに暗誦してしまっているガイドとは何か、そして、この、ここにいるわたしとは何なのか?

そうした収容所「博物館」の今日のありようが、のがれがたい記念品の苛酷な印象以上に、そのときわたしに突然、不気味に、不安にみちてかんじられたのだった。

ここについにないのは、ここでひとりの人間が死んだ、ひとりの人間がみずからの生きる場所をうばわれて400万人死んだ、という「記憶」だった。として死ななければならなかった死者に、わたしたちの戦後が象徴としての二度目の死をしいていることに、そしてそのことにいつか荷担していたじぶんに、わたしはあらためて重い恥辱を感じた。

そのとき、わたしはじぶんにおもったのだ。死者をして、ただひとりの人間として私たちのあいだにとりもどし、<いま・ここ>の死者として恢復すること。そこから、あらためて<わたしたちのアウシュヴィッツへの旅>をはじめること。

それが、このアウシュヴィッツから<わたしのアウシュヴィッツへの旅>のはじまりとなった。

長田弘アウシュヴィッツへの旅」"アウシュヴィッツにて"より)




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