▲【続き】ジルとヘンリ、二人のタイガー
「ジルとヘンリ、二人のタイガー」、前回の続きです・・・。
彼ら二人のタイガー・・・マシンの性能にハンディがあってもアグレッシブにプッシュを続け、時として上位にも食い込んでみせるドライビング・パフォーマンス。まさに記録よりも記憶に残るドライバー・・・とここまで書いてふと思うのは、次のように考える人も少なからずいるだろう、ということである。
つまり、20年以上の時の経過が彼らのイメージ、記憶にある種のフィルターをかけているのではないか、平たく言えば、「美化」しているのではないか・・・。また「若くしてこの世を去った」ということにも引きずられているのはないか、ドライバーとしての評価にも影響を与えているのではないか・・・ということである。つまり、今なお語り継がれている彼らのストーリー、ドライビングの「伝説」は「作られた」ものに過ぎないのではないか、ということである。
そういう側面も確かに否定はできないだろう。私自身は、実のところジルとヘンリの現役ドライバー時代からのモータースポーツファンというわけではない。彼らについて書かれた雑誌の記事や書籍を通じて彼らのモータースポーツ・キャリアに興味を持ちはじめ、数多く残されているドライビングの映像(VHSビデオ等が市販されており比較的容易に入手できる)を見て彼らのドライビングやドライバーとしての存在に深くシンパシーを感じるようになった。そういう意味では、元から「フィルターのかかった」ストーリーしか見ていないのではないか、結局ジルやヘンリのことを「本当にわかって」はいないのでは・・・と言われても仕方ないところはあるかもしれない。
また、数多く残されているジルやヘンリと同時代のドライバー、チーム関係者、ジャーナリストの証言、談話の中では、彼らのいずれもがジルとヘンリの「クラッシュをものともしない勇敢な」ドライビング、そして絶妙のマシンコントロールを賞賛する一方で、彼らのクラッシュの多さ、そして、彼らが必ずしもトラブルの回避能力において優れてはいなかったことを指摘する声もある。
それから、彼らを「名ドライバー」だとする世評については、「真の名ドライバーなら・・・死なずにチャンピオンになれる」と辛辣ではあるがある種の真実を衝いた指摘もあったりもする。つまり・・・「悲劇の名将」とは実際は形容矛盾に過ぎない、というのと同じようなものだろうか・・・(これを言ったのはかの司馬遼太郎氏だったと思う)。プロのドライバーのパフォーマンスを評価する際に、やはり重要なのは「どれだけ勝てたのか」ということは確かに否定できない要素ではあると思う。
上で書いたことは、確かにそうかもしれない。実際モータースポーツ関係の掲示板でジルやヘンリのことが論じられた際に上のような指摘を目にしたこともある。だがしかし、と私自身は思うのだ。本当にそう言いきってしまってもいいのだろうか・・・と。そういう「冷静な視点」もジルやヘンリを論じる際には確かに欠くことのできない要素ではあるけれども、モータースポーツの何に惹かれるのか、ということを考えれば、時間の流れや彼らが「夭折したドライバーである」という事実、残した実績数字を越えた魅力がやはりあるのではないだろうか。
これからの記事では、ジル・ビルヌーブ、そしてヘンリ・トイボネンというドライバーのキャリアを改めて振り返り、同時代に生きたドライバー、チーム関係者、ジャーナリスト等々の証言の検証などの作業を通じて、彼ら「二人のタイガー」の魅力は本当はどこにあるのか・・・彼らの「時代を超えて語り継がれているもの」を描くことができれば・・・と考えている。その中では、私にとって「同時代のF1ドライバー」であり、「記録にも記憶にも残っている」F1ドライバー、故アイルトン・セナ(1960-1994)にも触れることもあるかもしれない。
正直言って、まだ話の落としどころが見えているようで見えていない状態ではあるが、とにかくはまず、彼らのレース・キャリア、ラリー・キャリアを追っていく作業から始めてみたい。