▲ジル・ビルヌーブのレースキャリア:1977~1982

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ジル・ビルヌーブ…1981年スペイン(ハラマ)
●f1-facts.comより


ジル・ビルヌーブのレースキャリア、今回はF1デビューを果たした1977年以降を概観していきたい。

折しも今のF1は…先頃コロンビアの「暴れん坊」ファン=パブロ・モントーヤが2006年シーズン限りでマクラーレンを離脱、NASCAR入りを発表した。また、F1デビュー以来アグレッシブなドライビングで鳴らしたジルの忘れ形見・ジャック(BMW)も来期の契約が危ぶまれている状況である。モータースポーツを見る側として、どういうドライバーに心惹かれるのか、レースファンやラリーファンは何を求めてレースやラリーを見るのか…その辺りを踏まえて以下の文を読んでいただければ幸いである。




■1977年(27歳)


●シーズン当初は前年同様フォーミュラ・アトランティックに参戦

●第10戦イギリスGP(シルバーストン、7月)でマクラーレンからF1デビュー。カーナンバーは40。予選9位、決勝11位。マクラーレンからの出走はこの1戦限り。
*フリープラクティスでのジルはコーナーの至る所でマシンをスピンさせ、観客や関係者の失笑を買ったがそれは短時間でコースを覚えるための荒技だった。そして予選ではラリーマシン顔負けのドリフト走行でデビュー戦にしてシングル・グリッドを確保。ギャラリーの度肝を抜くスーパー・アタックだった…。

●第16戦カナダGP(モスポート、10月)でフェラーリから出走、カーナンバーは21、予選12位、決勝はミッショントラブルでリタイヤ。

●第17戦日本GP(富士、10月)もフェラーリから出走、6周目に第1コーナーでティレルのロニー・ピーターソンのリアに乗り上げて宙を舞い、金網を越えてコース・オフしてしまう。ジルのマシンが飛び込んだエリアは本来観客立ち入り禁止区域であったが、通常の観戦エリアからあふれた観客が多数入り込んでいた。この事故によりマシンは大破、ジルは奇跡的に無傷だったが、カメラマン1人とマーシャル1人が亡くなり、8人が重軽傷を負う惨事となった。

■1978年(28歳)


フェラーリのレギュラー・ドライバーとしてフル参戦。カーナンバーは12、チームメイトはカルロス ・ロイテマン。

●最終戦カナダで早くもF1初勝利をマーク。

●このシーズンの成績は、優勝1回、3位、4位、6位各1回、計17点(ランキング9位)。予選最高位は2位、ファステスト・ラップ1回。

●チャンピオンはロータスマリオ・アンドレッティ。チームメイトのロイテマンは4勝して48点(ランキング3位)。予選ではシングル・グリッドの常連ではあったが、決勝でなかなか結果に結びつかなかった。しかしねばり強くプッシュし続け、表彰台と優勝をマークしたジルの成績はルーキーイヤーとしては出色のパフォーマンスと言える。

■1979年(29歳)


●引き続きフェラーリのレギュラー・ドライバーとしてフル参戦。カーナンバーは12、チームメイトはジョディ・シェクター

●このシーズンのフェラーリはドライバー、コンストラクターのダブルチャンピオン。ジルは優勝3回(南アフリカアメリカ西、アメリカ東)、2位4回、5位1回で計53点(有効得点47点)。ドライバーズ・タイトルは3点差でエースのジョディに譲る。チームオーダーに忠実に従った結果と言われている。

●フランスGP(ディジョン)では、終盤ルノールネ・アルヌーと壮絶な2位争い。コーナーごとでお互いにホイールをぶつけ合い、火花を散らしながらのオーバーテイクの応酬。F1史上に残るバトルと言われるもレース後は「危険すぎる」と批判の声も相次ぐ。

●ドライバーズ・タイトルはジョディに譲ったが、ポール1回、ファステスト・ラップは実に6回を数え、速さの面では完全にエース格のジョディを上回っていた。

■1980年(30歳)


フェラーリからフル参戦。カーナンバーは2、チームメイトは引き続きジョディ・シェクター

●前年に比べてこの年はマシン・エンジンともドツボにはまってしまい大不振。他チームが空力に優れたウイングカー+ターボエンジンに移行しつつある中フェラーリは進化から取り残された形になった。

ディフェンディング・チャンピオンのシェクターは入賞わずか1回(5位)、この年限りでF1から引退。

●一方ジルはそれでも懸命にプッシュし続け入賞4回(5位・6位各2回)で計6点をマーク(ランキング14位)、全16戦の約半分の7戦でトップテン・グリッドと奮闘する。ワールド・チャンピオンはウィリアムズのアラン・ジョーンズ

■1981年(31歳)


フェラーリのエースとしてフル参戦。カーナンバーは27、チームメイトとして新たにフランスの新鋭ディディエ・ピローニを迎える。

フェラーリもターボエンジンに移行したが、126CKは挙動が不安定で、さらに初期型ターボのタイム・ラグに苦しめられる。それでも優勝2回(モナコ、スペイン)を含む入賞4回でトータル25点をマーク(ランキング7位)、またポール・ポジションとファステスト・ラップも各1回。ドライバーズ・タイトルはブラバムネルソン・ピケコンストラクターズはウィリアムズ。

モナコでは挙動の定まらないマシンをcm単位でドリフトさせながらコントロールし、終盤アラン・ジョーンズを抜き去り優勝。ステアリングを持つジルの手は全てのコーナーでカウンター・ステアのためクロスしていたと言われている。

●続くスペインもジルは予選7位から優勝。ジルは序盤の14周目から最終79周目までトップを熱く守り5位エリオ・デ・アンジェリス(ロータス)まではわずかに1.24秒差の大接戦だった(その約27秒後方の6位はロータスナイジェル・マンセル)。

■1982年(32歳)


フェラーリのエースとして参戦、カーナンバーは27、チームメイトは前年に引き続きディディエ・ピローニ

●ニューマシン126C2はテスト等でも好調、ジルはいよいよタイトルに向けて始動するも…第4戦サンマリノGP、終盤フェラーリ1-2体勢でトップのジルはチームのオーダーに従ってクルージング。チームメイトのピローニはオーダーを破ってジルを追い越して首位を奪い、「裏切り」に気が付いたジルが追い一度は抜き返すが、最終ラップでピローニが再度抜き返しそのまま優勝。その後2人の関係は修復不可能な状態となってしまう(不可解にもチーム側もピローニの行為をよしとした形跡もあったらしい)。

●次戦ベルギー(ゾルダー、5月9日)ではジルとピローニのうち、予選の速い方を「エース」とするということになっていたという。ピローニがジルを上回るタイムを叩き出したと聞いた瞬間、復讐心に燃えるジルは我を忘れてコースに再度飛び出していく。時速250kmオーバーで走行するジルのアタック・ライン上に現れたのは…アタックを終えてスロー走行中のヨッヘン・マス(マーチ)だった。ジルはマスのリアタイヤに乗り上げ、空中に舞ったマシンからシートごと投げ出されたジルはコース脇のフェンスに激突、救命処置の甲斐もなく、その夜9時12分搬送先の病院で亡くなった。享年32歳。

◆この1982年シーズンは、開幕戦ではチームオーナー側とドライバー側の対立がストライキ問題にまで発展し、さらにはジルのクラッシュをはじめとして重大な事故が多発した「荒れたシーズン」となってしまった。その後悲願のタイトルに向けてポイントリーダーをひた走っていたディディエ・ピローニは豪雨の中のドイツGP予選中、スロー走行中のアラン・プロスト(ルノー)のマシンに激突、一命は取り止めたものの、両足複雑骨折の重傷を負い、F1からの引退を余儀なくされる。

コンストラクターズ・タイトルはフェラーリが制したが、ドライバーズ・タイトルを制したのは前年ノーポイントでこの年ウィリアムズに抜擢されたケケ・ロズベルグだった。 

◆例年シーズンオフに掲載される英オートスポーツ誌の「今年のF1ベストテン・ドライバー」の1982年の記事は1位を空席とし、「2位ロズベルグから始まった。




次回は…ジルのF1キャリアのトピックについて改めて振り返ってみたい。