▲交通博物館のティレル・フォード

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1.名作&迷作・ティレルの六輪車


上の写真は…この5月14日限りで大宮へ移転のため一旦閉鎖した東京・神田の交通博物館売店に置かれていたペーパークラフトの完成模型、往年のF1マシン・ティレルP034です。普通「交通博物館」といえば、鉄道関係の展示がすぐ頭に浮かぶと思いますが、ここはやはり「交通」博物館だけあって、こういうグッズも売られているのですね。下にちらっと写っているのは…東京駅のペーパークラフトですが、それにしても、こんな所を写真に撮って喜んでいるのは私ぐらいのものでしょうか(爆)。

マシンの側面に”SCHECKTER”とあるのは、当時のティレルのエースドライバー、後に1979年にフェラーリでF1ワールド・チャンピオンに輝いたジョディ・シェクター(南アフリカ)…。でも名前の脇に貼られているのが南アフリカ国旗ではなくイギリス国旗であるあたり、当時南アフリカの置かれていた微妙なポジション(人種差別政策を全世界から非難されて経済制裁を受け、国連からも除名されていた)を窺わせます。

また、マシンのフロント・ウィングとサイドに大きく書かれている”elf”のロゴは…「いすゞ・エルフ」ではなくて(笑)、ティレルのオイル・サプライヤーだった、フランスを代表する石油会社エルフ・アキテーヌのスポンサーロゴです。で、マシンのカラーリングはイギリスのF1ナショナル・カラーのオリーブグリーンではなくてフレンチブルー……とかいう枝葉はもうこれくらいにして、何と言っても目を引くのはタイヤの個数でしょうか。前に4つ後に2つの六輪車…これはフェイクでもなければギャグでもなく実際にあったマシンです。

1970年にチームを興し、ジャッキー・スチュワートとともに早くも黄金時代を築いたティレルですが、73年一杯でスチュワートが引退してからの成績は低迷の一途を辿っており、打開策として空力の鬼才デレク・ガードナーがデザインしたのが六輪車のティレルP034でした。

マシンのフロントからリアに空気を上手に逃がすにはどうしたらいいか…マシンのフロントに鎮座している大きなフロントタイヤ、これを小さくしてマシンと「ツライチ」にしてしまえばいい…となるとタイヤの接地面積が減ってグリップが落ちる。ならばフロントタイヤは2組にしてしまえばいいじゃないか…というこの発想。当時、F1テクニカル・レギュレーションにタイヤの個数は規定されていませんでした。もちろん「タイヤの個数は自由にすればいい」からというよりは、「タイヤの個数は4個とすること」などあまりにも当たり前すぎて明文化するまでもない、と考えられていたからで、実際に「六輪車」のマシンが出てくるとはそれこそ「想定外」だったわけです。

1975年のシーズンオフ、翌年モデルの新車発表会でP034が公開されたとき、あまりのサプライズに関係者一同驚きと爆笑と失笑をもって迎えたといいます。「そりゃ6輪にすりゃえーかもわからんけど…ホンマにやるかぁ」といったところでしょうか。しかし、いざ76年シーズンが始まってみると…前評判を吹き飛ばす快走を続け、スウェーデンGPではジョディ・シェクターがマシンデビュー4戦目で早くも優勝、ティレルはこの年コンストラクター3位となる大躍進を遂げました。狙い通りに空気抵抗低減効果があったからというよりはタイヤの数が増えたことによって安定したブレーキング、コーナリングが可能となったからというのが真相のようですが…。

しかし、翌年も引き続いて…大躍進、というわけにはいきませんでした。あまりにも特殊でコストもかかる小径フロントタイヤの開発継続にタイヤ供給側のグッドイヤーが難色を示したから、と言われていますが、それゆえ他のチームもティレルのアイディアに追随することもなく、六輪車は77年シーズン限りで姿を消してしまいました。少しだけ「世に出るのが早すぎた」のでしょうか、こうして鬼才ガードナー氏の名作は「迷作」となってお蔵入りとなったわけです。

ちなみに、マシンのタイヤの個数については、1983年のレギュレーション改正で思い出したかのように「4個に限る」と規定されました(笑)。ついでながら、エンジンについても現行レギュレーションではディーゼルエンジンガスタービンのようなガソリンエンジン以外のパワーユニットは禁止されています。あ、それから四輪駆動も禁止です(笑)。


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●マイホームタウンさんご提供の中嶋悟「悲しき水中翼船」ジャケット画像
(上:CDシングル裏・ティレル019、下:CDシングル表)


2.トレンド・セッターとなった「ハイノーズ」


その後、エンジンのターボ化の流れに完全に乗り遅れたティレルは気鋭の若手ドライバーを次々と輩出するものの、チーム成績としては低迷の一途をたどります。でも、1990年シーズン、新たに日本のF1パイオニア・ドライバー中嶋悟とフランスの新鋭ジャン・アレジをドライバーに迎えたティレルは再び印象的かつエポック・メイキングなマシンを世に送り出しました…次の写真ですが、中嶋さんがドライブするティレル019です。

マシンの空力の問題とは…様々なデザイナーの様々なスタディが積みかさねられた結果、要はマシン下の空気をどうやってコントロールするか、ということに尽きるようですが、名人ハーベイ・ポスルスウェイト博士とエアロダイナミシストの鬼才ジャン=クロード・ミジョー(ここでも英仏のコラボレーションだ)が出した答えは、「ハイノーズ&アンヘドラルウィング」でした。シーズン途中のサンマリノGPでデビューしたティレル019は続くモナコジャン・アレジが2位に入るなど快走を重ねて合計16点をマーク(コンストラクターズ5位、中嶋氏は6位入賞3回)、「ハイノーズ」は以後各チームがこぞって採用するトレンドとなりました。P034「六輪車」の時と違って、こちらは見事にトレンド・セッターとして花開いた、ということになるのでしょうか。

ただ惜しむらくはピレリのタイヤとのマッチングが……とはいえ、トップチームからでなく「中堅どころ」のティレルからこういう新技術が出てくるところが「名門チーム」と言われ、オーナーのケン・ティレルの人柄も相まって関係者やファンから敬意を以て迎えられた所以なのだと今にして思います。

ちなみに、このティレル019の「ハイノーズ&アンヘドラルウィング」は、別名「ドルフィン・ノーズ&コルセアウィング」とも呼ばれ、フジTVのF1実況などでは、古館さんが「中嶋、鈴鹿のイルカとなった感があります」とか絶叫していたのを覚えています。そして、中嶋さんは余勢を買って、というか折からのF1ブームにも乗って、シーズンオフには「悲しき水中翼船」というレコードまで出してしまいました(笑)。もちろん「水中翼船」とはコルセアウィングのティレル019のことですね。この曲をCMなどで聞いた時の印象は「中嶋さん、歌まで納豆走法やなぁ」だったのですが、オリコンチャートでは20位まで行ったそうです。

それはともかくとして…「悲しき水中翼船」のレコードを実際に買われた方にお会いできるとは思っても見ませんでした。まさに「ブログやっててよかったなぁ」と思う瞬間です(爆)。マイホームタウンさん、貴重な画像をご提供いただき、ありがとうございました。


3.ハイドロリック・サスの失敗と物語の終わり


その後もティレルは1995年にポスルスウェイト博士が「ハイドロリック・サスペンション」(要は94年に禁止されたアクティブ・サスペンションに代わるシステム)を開発、うまくいけばまたF1界のトレンド・セッターとなり得たチャレンジ(だから94年シーズンに快走を見せ、ベネトン等有力チームからのオファーがあった片山右京氏も残留したのでしょうが)だったのですが…。システムの熟成に手間取り、思うようなパフォーマンスを挙げられずにこの年限りで「お蔵入り」となり、右京さんもノーポイントに終わりました。残念ながらこちらは「箸にも棒にもかからなかった」と言うべきでしょう。

そして、幾度となく資金難に苦しみながらもその度に一筋の光明を見つけて這い上がってきたティレルには、もうF1を続けていく余力が残されていませんでした。結局はジャック・ビルヌーブのパーソナルマネジャーだったクレイグ・ポロックがF3、F3000の名門マシンコンストラクターのレイナードと手を組んで立ち上げたBARに買収される形で1998年シーズンを最後にF1界から退くこととなりました。

ティレルのこの「物語」には、言わずもがなというか、できることなら見たくはなかった「オチ」があります。BARのティレル買収劇はF1参戦権を確保するためだけのものであったため、97年チャンピオン・ドライバーのジャックをエース・ドライバーに迎えたクレイグ・ポロックは、BAT(ブリティッシュアメリカンタバコ)の豊富な資金力、そしてレイナードという「ビッグネーム」を背景に、ケン・ティレルとそのスタッフ、そしてこれまでのティレルの伝統に対してあまりにもリスペクトを欠く言動を繰り返したと言われています。また、既存のチームの有力スタッフに強引なヘッド・ハンティングを仕掛けたことも災いし、参戦前から多くのF1関係者から反感を買ってしまっていたとか……。

その後のポロック氏とBARの「失敗と苦悩」は、「日曜の午後2時からの2時間だけがスポーツで後はビジネス」(Byフランク・ウィリアムズ)とまで言われる世知辛い近代F1にあっても、やはりお金だけでは買えないものがあるのだ、というべきなのでしょうか…。




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