▲ジルは「危険なドライバー」か?③同時代のドライバーの証言




前回は、ジル・ビルヌーブのドライビングについて、チーム関係者からの証言としてハーベイ・ボスルスウェイト博士のコメントを紹介した。今回は、同時代のドライバーからのコメントを引いてみたい。


1 ケケ・ロズベルグ(1982年F1ワールド・チャンピオン)のコメント


まずは同時代の「ジルのよきバトル・パートナー」として、ケケ・ロズベルグのコメントをご紹介したい。ケケは、ジルがF1へ上がる前のフォーミュラ・アトランティックでも共にホイールをぶつけ合い、激しいバトルを繰り広げた間柄でもあり、ジルのドライビングを語る最適任者の一人とも言えるだろう。


積極果敢な走りを信条とすることで知られているケケ・ロズベルグも、ビルヌーブを賞賛はするが、その気持ちを迎えて(「抑えて」の誤りか)彼の走りをこう評した。

「ジルはどえらいレーシング・ドライバーだったし、彼のことを思い出すのがとても好きだよ。でも、ジルはレースを非常に個人的なものとして受け止めていたんだ。彼はまるで自分の回りを包んでいるバリアを突き抜けようとしているかのような走りをしていた。周りの人たちは、私もジルと同じようなドライビングをするというので、驚いている。私はできる限り自分を守ろうとしていた。ジルはガッツがあり、テクニックを持ち、頭も切れた。彼の勇気は普通の人と比べて遙かに大きい。でも、私は恐れを知らないわけではなく、ジルは恐れ知らずだったんだ

<「F1倶楽部」Vol.10特集「レーサーの死」所収「遺された人々」P84~>
(文中太字はo_keke_nigelによる。以下同じ)

希代のファイターにしてチャージャーと言われ、1984年のアメリカGP(ダラス市街地)では、猛暑で路面状態も最悪の中、ビーキーでタイム・ラグの激しいホンダ初期型ターボを積んだウィリアムズを巧みにコントロールして第二期ホンダの初優勝をマークしたケケにしてもジルは「異次元」だった。

ケケもまた1980年代初頭の「突然予期せぬ挙動を示すような、運転の難しいクルマ(コーナーの入口では超アンダーステア、一転して出口ではオーバーステアに転じるような)をコントロールする能力」に長けていたドライバーで、F1通算勝利はジルよりも1回少ない5勝、それでいてワールド・チャンピオンのタイトル・ホルダーにしてモナコGPのウィナー(1983年)であることから考えても、その勝負強さとドライビングの激しさがわかる。そのケケしてもジルには負ける、と言うのである。


2 ジョディ・シェクター(1979年F1ワールド・チャンピオン)のコメント


次のジョディ・シェクターは1979~80年の2年間、ジルのチームメイトとしてフェラーリに在籍し、ジルの葬儀の際にはドライバーを代表して弔辞を読み上げた。彼もまた、ある意味ケケ以上に身近でジルのドライビングを感じ続けたドライバーである。


「ジルにとっては、レースはすごくロマンティックなものだったんだよ」というのはシェクターだ。「私は死んでしまったら元も子もないと思っていたけど、彼には最速という言葉がすべてだったんだ。すべてのレース、すべてのラップで一番速くないと気が済まなかったのさ。確かにそういう意味では速かったな、彼は……。私がこれまでに会った世界で一番速いドライバーだったよ。もし明日にでも彼がこの世に現れて、もう一度人生を最初からやり直すチャンスを与えられたとしても、まったく同じ情熱で、まったく同じことをやらかすんじゃないかな。彼に限って言えば、そんな表現しかぴったりくる言葉が思い浮かばないんだ。ジルが何者にもましてモータースポーツを愛していたということは、僕が誰よりも一番よく知っているよ」

<レーシングオン誌 No.122 92.7.1 「思い出のジル・ビルヌーブ」ナイジェル・ルーバックの5thコラム P65~>

上のケケ・ロズベルグジョディ・シェクターのコメントから浮き彫りになるのは、まさにナイーブなまでの「速さ」に賭けるジルの情熱、といったところだろうか。そこには「レースにおける勝ち負け」までも超越してしまっているのではないかとすら思えるほどのジルの「ファイターとしての資質」が見え隠れする。

生前のジルと親交の厚かったジャーナリストの一人であるナイジェル・ルーバックはこのように言う。


私のこれまでの経験からしても、彼のような男は他にいない。かつて*マウロ・フォルギエーリがいみじくも言った「勝利への燃えるような執念」を彼が持っていること、これは間違いない。だが私が言いたいのは、彼はその執念を7位という毒にも薬にもならないような成績を挙げるためにも燃やすことができた、という点なのだ。それこそが、ジル・ビルヌーブをしてジル・ビルヌーブたらしめている点なのである。

<レーシングオン誌 No.122 92.7.1 「思い出のジル・ビルヌーブ」ナイジェル・ルーバックの5thコラム P65~>
(*マウロ・フォルギエーリ…フェラーリに1987年まで在籍したチーフ・エンジニア。70年代~80年代のフェラーリの技術面を支え続けてきた名物エンジニアだった)

ナイジェル・ルーバック氏の「彼はその執念を7位という毒にも薬にもならないような成績を挙げるためにも燃やすことができた」という指摘は重要である。与えられたマシンが何であろうと、少しでも速く、少しでも前にしゃにむに出ようとするジルのスピリットとそれを可能にするマシンのコントロール能力…しばしばそれは「危険を省みない」「命知らず」「マージンを持たない」と評されてきた。

では、ジル自身は自分のドライビングが持つ「危険性」について、どのように考えていたのだろうか。


3 ジル自身のコメント


ケケ・ロズベルグは「ジルは恐れ知らずだったんだ」とコメントしているが、ジル自身はもちろん自らの激しいドライビング・スタイルの危うさを認識していた。


レースは、ゴルフやテニスのようにミスをしたって一週間やそこら腕が痛むだけですむようなスポーツじゃない。僕もいつかきっと重大なクラッシュに遭遇するだろう。本当にひどい怪我を負う日がやって来るかもしれないと覚悟はしている。死ぬかもしれないなんて事は考えていないけど、死も仕事の一部なんだという事実は理解してるよ。



いつだって病院に担ぎ込まれる可能性がある。でも、それが恐くはない。レースにはリスクが付き物だと分かっているからね。しかし、どうにもならない時というものはあるものだ。もしこのゾルダーでマシンがコントロール不能に陥ってしまったら、そうだね、僕にできるのはママと叫んで十字を切ることぐらいさ。

<「F1倶楽部」Vol.10特集「レーサーの死」所収「遺された人々」P85>

そして、実際に1982年のベルギーGPで天に召されていってしまったジルのこの言葉を、後の世の私たちはどのように受け止めればいいのだろうか。

サーキットの外でのジルのドライビングについて、このようなエピソードが残っている。おそらく1981年頃のことと思われるが、当時のチームメイト、ディディエ・ピローニとジルはある賭けをしたという。お互いどれだけの間、フェラーリのロードカーのアクセルを踏み続けていられるか、といったものだったが、勝負は最初から分かり切っている。そんな危険な賭けなど、ディディエ・ピローニにとってはばかばかしいを通り越してアホらしかったに違いない。

もちろん賭けはジルの勝ち。しかも、勝負が付いた後もジルはなおアクセル全開でフェラーリを飛ばし続けたという。でも、そこからの話がいかにもイタリア的だった。トンデモないスピードでフェラーリのロードカーが暴走している、との通報を受けた警察がアウトストラーダに非常線を張り、ジルは検挙されてしまったが、捕まえてみたらジルだったとわかった高速隊の警官たちは一列縦隊になって、最敬礼でジルを迎えたという。

こんなことを、今のF1ドライバーがやらかしたとしたら、ヘタするとライセンス剥奪モノの危険行為だろう。だが、このエピソードがいくばくかの可笑しみをもって語り継がれてきたのは…時代が大らかだったというべきか、 はたまた「それがジルだったから」としか言いようがない。

しかし、それにしても何というトリッキーで、それとは裏腹に、いや、だからこそ「魅力的」でもあるドライビング・スタイルなのだろうか。ジルのドライビングは綱渡りのロープを全力で駆け抜けるようなスタイルだった。少しでも足を踏み外せば、奈落へ落ちていったであろう、そして実際そうなってしまったのだが……でも彼自身も、そしてファンも含めた当時の周囲の人たちも、「ジルなら、仮に落ちてもさほど危なくないところに着地できるだろう」と思っていたのではないか、いや落ちた先の奈落を微塵も感じさせなかったのかもしれない、1982年の「あの日」までは。


*次回は、79年フランスGPのオーバーテイクに話を戻して、ジルのレース・キャリアをいったん総括しておきたいと思う。