▼「スローブログ」の近況と雑感

先月は、ブログ記事のネタ合わせのために関連サイトを探して回っていた(特に韓国ネタ)のですが、実のところは自分のところのネタづくりはそっちのけで、あちこちのテキストサイト界隈を毎晩お邪魔しては記事をせっせと”nigel's bookmarks for bookshelves”(はてなブックマーク)にクリップしていました。

その中で今なお心の中でくすぶっているトピックをいくつか取りあげてまとめてみたいと思います。
(以下「です、ます調」から「で、ある調」に変えます。)


1 Yahoo!ブログの「転載機能」


アバターや人気度の☆マーク、訪問者履歴等数多くあるYahoo!ブログ(以下「Y!B」とする)の独自機能の中で、最も議論になっていると思われる機能が「転載機能」である。それぞれの記事の下に「転載」と書かれたボタンを押せば、自分のブログ記事としてアップできる。主な特徴は、次の2点。


(1) デフォルトでは「転載可」となっている(新規記事投稿、記事修正の設定画面で「不可」にできる)。
(2) 転載元の標記(ブログのタイトル)・リンク等の記載は、直前転載元のブログタイトル・リンクが表記される。
<A→B→C→D と記事が転載された場合、C以降の転載記事には元記事作成者が誰かは記載されない>
(3) 転載元には転載された旨の通知機能はない。通知には転載者が転載元にコメントを入れる等のアクションが必要である。


結論から言うと、私自身は色々考えた結果、転載機能は現在全て「不可」にしている。過去の記事も遡って設定を「不可」に変えた。理由は、ひとことで言えば「お手軽で便利だがトリッキーな機能」だからである。その「トリッキー」さとは、次のとおりである。

(1) デフォルトで転載が「可」となっている状態を、著作権法上どう解釈するか。
(「許可なしで自由に転載」を認めていることの明示となるか否か。)
(→コメント欄で「許可」を「許諾」あるいは「承諾」に訂正する旨書いています)

私自身は、「設定次第で不可にできる」のだから、明示となると考えるが、自分自身、当初はそういうことを全く意識していなかったことから考えると、「転載ボタン」の表示はあくまでも「転載機能を使うことの承諾」であって、転載の承諾を別途取った上で使うべきだ、という考え方もあり得るし、現にそういう意見を目にしたこともある。

要は人によって解釈が異なり、しかもどちらが正しいかということは現時点では全くオーソライズされていない。


(2) 転載が繰り返されると、オリジナル記事作成者が誰なのか非常にわかりにくくなる。
(中間の転載者のうち、ブログや記事を閉鎖・削除した人がいるとそれ以上はさかのぼれなくなる)

二次転載以降元記事作成者のクレジットが記載されず、オリジナル記事にさかのぼれないことがあり得る…ということは記事の責任の所在が不明確になるという点で大いに問題がある。

私自身は、自分で撮影した画像については、クレジットさえ付けてもらえば、事前の許諾なしで自由に転載できる素材や説明用の資料として提供したいと考えるが、トリッキーなY!Bの転載機能ではなく、「クリエイティブ・コモンズ」のように転載条件が細かく設定できる方法を取りたいと考えている。ただここは転載を認める人の考え方によるところが大きいだろう。また、「絶対無断転載されたくない」人については言わずもがな、この機能をOffにしておくことを強くお勧めしておきたい。


【関連リンク】
■あぶないブロガー11: Y!B 天災機能(1)
 ~転載機能を中心としたY!Bの機能についてのわたりとりさんの詳細かつ優れた論考。現在(10)まで連載中。
■「クリエイティブ・コモンズ」について
クリエイティブ・コモンズ日本版公式webページの中の解説・説明記事


2 Y!Bの「コメント文化」


これもまたテキストサイト界隈のブログ論ではしばしば言及されるY!B独自の文化とされる特徴である。最近の記事では…Y!Bの転載機能の議論から発展して書かれたと思われる次のエントリーが目に付いた。


Yahoo!ブログはSNS寄りだから、トラックバックよりも「とにかくたくさんのコメントが欲しい」「お友達が欲しい」という人が多いんだと思う。

Yahoo!ブログの独自機能に頼っているユーザーが多いので、記事の繋がりよりも毎日の挨拶コメントとか、訪問のお礼などYahoo!ブログユーザーはコメントの付き合い重視のコミュニケーションが好きなんでしょう。
(「コメント文化」と「トラックバック文化」より)

このエントリーだけ見ると、sweetloveさんは「Y!B完全否定派」に読みとれなくもないが、決してそうではない。過去の色々な経緯の中から、「表現することの大切さ」「自分の言葉で記事を書くことによってブロガー同士がつながることの大切さ」を重視する視点からの問題提起であることを補足しておきたい(また、彼女は元Y!Bのブロガーでもあり、更新は停止されているがコンテンツは削除されずに今なお残っている)。

一方でsweetloveさんの指摘については、確かにY!Bの特徴をよく表しているとは思うのだが、私自身はそれがY!B固有の特徴か、というと同意しつつも若干の違和感も同時に感じる。

「コメント中心でつながろうとする文化」に対しては、私も時としてある種の「暑苦しさ」を感じてしまうことも確かにあるのだが、それは、「コメントし合うこと」そのものではなくコミュニケーションのみが過剰となることによって、「可視化された反応」を性急に求めようとすることが問題なのだと思う。そして、「可視化された反応」を過度に求めてしまう傾向は形こそ違ってもY!B以外のブログサービスにおいても往々にして見られるのではないだろうか。

ただ、Y!Bの場合は、ユーザー数も多く、目立つことと、他に「アバター」や人気度の★とかファン登録、各種カウンターや訪問者履歴等々、励みにもなる反面「可視化された反応」だけを往々にしてユーザーに追い求めさせてしまう独自の機能も相俟ってある種の「カリカチュア」(戯画、風刺画)のような存在として認識されてしまう側面があるのだと思う。


3 「ヘイトスピーチ」の心理的モメントと危うさ


ちょっと話が飛んでしまうが、Yaponiya氏の「ヘイトスピーチ」というサイトをまず挙げておきたい。

なぜこの話題を「最近の雑感」として挙げたかというと…この10月末に11年ぶりに韓国へ2泊3日の旅行をしたのだが、その前後にネタ集めとしていろいろなサイトを回ってみたが…正直ここまで韓国についてのネガティブな言説がネット上にあふれているとは思わなかった。ひどいモノになると「いかに韓国人が世界中で問題を起こして嫌われているか」を「実証」するためのニュースを丹念に集めたサイトまであった。

色々と見て回り、冒頭のサイトも通読した上で感じた「ヘイトスピーチ」の特徴は次のとおりである。

* その多くが対象となる国や民族、人種に対する「被害者意識」が出発点となっている。
* 実証するために色々な「ソース」(各種のアンケート、統計、ニュース等)が根拠として挙げられている。
* 「ソース」で示された特定の個人の行為や言説が一足飛びに対象となる国や民族、人種の属性とされている。
* その「ソース」が「あらかじめ選び取られたもの」かもしれないということについては考慮しない。
* 自文化に対する同質性と、対象となる国や民族、人種に対する卓越性への表明とセットになっている。
* 往々にして自文化の中にある不安感を対象となる国や民族、人種に対して投影したものである。
* そうして形成された被害者意識がベースに、対象となる国や民族、人種に対しての正義感を表明する。
* つまりある種の「シャドーボクシング」(必ずしも存在しない「敵」への攻撃)である。
* ヘイトスピーチへの批判に対しては「自己言及のパラドックス」のトリックで返す。
(ヘイトスピーチをヘイトするオマエの言論こそがヘイトスピーチ、とか)
* 「シャドーボクシング」はヘイトスピーチへの批判へのカウンターとしても援用される。
(だったらオマエは……人のヘイトスピーチは見逃すのか、とか)

このようなメンタリティを持つ「ヘイトスピーチ」がいかにトリッキーなものであるかは言うまでもない。


4 「リテラシ」とは…


と、ここまで見てきて、ある一つのキーワード…リテラシという言葉が頭に浮かんできた。

リテラシ…とは、辞書的な意味としては「読み書き能力。識字能力。ある分野に関する知識、教養、能力。」(はてなキーワード「リテラシー」)ということになるのだろうが、とりわけメディアやネット上の言説に対して使うときは、「うのみにしない、疑う心」という文脈で使われることが多いように見受けられる。もちろんそれは間違いではない。しかしながら、例えば私がある言説に接したとき、またあるテーマについて考えたとき、最終的には何らかの判断や評価をしなければならない。あれもだめ、これもおかしい…と「自足しているものたちの名において」「耐えがたく絶望すること」の先には「絶望しているものたちの名において」「耐えつつ絶望を疑うこと」が必要なのだと思う(ハンス=マグヌス・エンツェンスベルガー全詩集より「むつかしい仕事」)。でなければ、「絶望」の先に待っているのは「リテラシ」の皮を被ったシニシズムである。


そう考えていくと、私にとっての「リテラシ」とはただ単に「疑う」ことだけではなく、「ある限定された条件の下」でなら「このように判断する」ということ、そして多様な検証を経た上で、常に修正を加えていこうとするメンタリティなのではないか、とも思う。つまり「常にアップグレードしようとする心」そして「永遠のβ版」。


■under the sign of saturn - メディアリテラシー、あるいは解釈の優劣を競うことのむなしさ(jouno氏)の誠実かつ詳細な論考を参考にさせていただいた。


とりとめのない4つのテーマについての「雑感」だったが、実はこの4つのテーマは私の中では深いところでお互いにつながっている。