▼わたしとあなた、あなたとわたし~「他者」を理解するということ

1 「見る見る速い」目の電車




JR西日本加古川線(加古川-谷川間48.5km)が輸送量が少ない「地方交通線」(kmあたり1日輸送人員が8,000人未満)でありながら沿線自治体の熱望もあって電化されたのは、ちょうど2年前の2004(平成16)年12月19日のことでしたが、そのときに投入されたある1編成の電車が関係者や沿線住民、レールマニアの度肝を抜くラッピングを施されて登場しました。

車両履歴等のマニアックなことは上のリンク先をご覧いただくとして、悲願の電化を記念して、沿線の西脇市出身の国際的なアーティスト・横尾忠則氏のデザインにより施されたラッピングとはどのようなものなのか、ともかく下の写真をご覧いただきましょう。


イメージ 1

クモハ102-3551等2連 2004年12月19日 市場駅

イメージ 2

(左)キハ40形ディーゼルカー(右)クモハ102-3558 2004年11月21日 厄神(やくじん)基地

<写真はクリックすると大きくなります>

加古川線用車両のライン・カラーは、非電化ディーゼルカーの時代から踏襲された青緑1号(エメラルドグリーン)ですが、「横尾ラッピング電車」のデザインは、ご覧のとおり色とりどりのキューブがあちこちにちりばめられたモザイク模様をベースにして、所々に人間の目がリアルに描かれています。加古川線」と聞けば、「ラッピング車両史上」(?)に残る名作にして迷作として、このデザインを即座に連想される方は決して少なくないでしょう。

「異文化理解」の論考に参加して記事を書き始めたはずなのに、何だ、いきなり自分の十八番の鉄っちゃんネタかい、と思われた方もおられると思いますが…この異形のデザインは異形であるが故に、評価のされ方とその視点に着目してみれば、些か強引ですがまさに「異文化理解」に関わる興味深いトピックでもあると思います。


2 「見る見る速い」への2つの視点


(1) 「異文化」=「他者」との出会いと反応

この横尾ラッピングのコンセプトは、web版の神戸新聞ニュース(2004.12.16)によれば「走る電車を沿線から見る目と、乗客の目を表現した」ものということですが、通常の美術作品ならともかく、公共交通機関の車両にまさかこんなものが描かれるとは、ほとんどの人にとって「想定外」の出来事でした。

とにかく松田優作状態」(なんじゃこりゃあ~!)と化してそのインパクトにとにかく茫然とする人、こんなものアリといえばアリだと一種のネタとして面白がる人、あるいはこんなデザインを公共交通機関にするもんじゃない、と真剣に怒りを露わにする人、そして「加古川線なんてそんなもんだろw」と不可解な嘲笑をする人等々…さまざまな反応がありました。

もちろん、そのうちのどれが「正解」なのかという解釈ゲームをここでやりたいのではありません。「横尾ラッピング」というある種の「異文化」に対して、この稿ではその反応を導くメカニズムに着目したいと思います。

異文化という「他者」に接したときの反応は、自分がもともと持っているなんらかの基準との間に生じた「偏差」と、その偏差に対するスタンス-そのまま認めるのか、自分の基準を修正して偏差を小さくするのか、棚上げするのか、攻撃・排除しようとするのか-の両方の要素によって決まってくると思われます。そして、その偏差が大きければ大きいほど、比較対象となる自らの基準をより強く意識するようになり、その自らの基準へのスタンスがそのまま偏差に対するスタンスにもなる、と考えられます。

つまり、「他者認識」とは形を変えた「自己認識」でもあり、言い換えれば自己認識へのスタンスが他者認識のあり方を決める、ともいえるでしょう。

例えば、粗っぽい言い方ですが、「電車のラッピング塗装とは、××××なものがふさわしい」(「××××」には…適当な語句を入れてみてください)と考えている人がいたとして、その人がこの電車を見て自分の「××××」なものとは異質なものを強く感じたとします。その際に、自分の「ラッピング電車認識」をこれを機に色々な方面から考えてみようと思ったなら「強烈だけど、こういうのも新しい表現としてアリかもしれない、ちょっと他の人の評価も聞いてみよう」となるでしょう。一方で自分の「××××」なものを守りたい、と考えたなら「こんなラッピングを公共交通機関にするのはいかがなものか?」という反応になると思われます。

でも、この「横尾ラッピング」自体には「異文化理解」=「他者認識」の点でもう一歩踏み込んだ意味がある、と私は考えています。


(2) 「見る-見られる」

このラッピングを実車で見た当時まず感じたのは…とりわけ人の目がリアルに書かれているところにそのまま反応して、「これって"見る-見られる"ということだよな」でした。この「見る-見られる」、大学の西洋政治思想史の授業でその当時30代の助教授が熱っぽく語っておられた言葉を十数年経った今でも覚えています。

自分が一方的に「見ている主体」と思っていたところから、自分もまた「見られている対象」である、と認識した瞬間、その「場の空気」が変わる、劇的に変わるんだ。

「他者」を一方的に見て「認識・評価」していた自分自身もまた「他者」から見られていて「認識され、評価され」ていることに気が付いた瞬間、いったん作られていた「他者認識のストーリー」の安定性が激しく揺さぶられる。つまり、他者を問う自分自身もまた他者から問われているのだ、ということに気が付いたとき、どうやってストーリーの再構成を行うのか、という図式なのだと思います。

「横尾ラッピング」の例で言うと、鉄道車両とは通常一方的に見るだけの対象なのであって、電車から自分もまた見られているなどとはとは誰も思ったりしません。でも、その電車にリアルな「目」があちこちに描かれていて、自分自身も電車に「見られている」わけです。ベースとして描かれているモザイク模様は、あえて電車に目を向けさせる仕掛けなのかは分かりませんが、例えば(1)で言う「電車のラッピング塗装とは、××××なものがふさわしい」という自己認識に対して「じゃあ、その××××って一体何なの?」と問い直されているかのように思えてくるのです。

ただ、鉄道車両という不特定多数の人が日々接する公共交通機関にこういうデザインとは…確かに「塗り直せ」という人の気持ちも分かります。このカコM1を見るたびに自分自身を問い直していては身が保たないですから。

3 わたしとあなた、そして、あなたとわたし ~これからの論考の方向性


「他者を認識」するとは「自己を認識すること」と自己認識へのスタンスと不可分の作業であって、しばしばそれは「他者からの認識」によってそのストーリーの見直しと再構成を迫られるわけですが、その「ストーリーの再構成」は必ずしもポジティブなものばかりではなく、揺さぶりが大きい、と感じ、あまりにストーリーの再構成を急ぐあまりに、そのためのリソースが過剰に消費され、他者にとって逆に「抑圧的」に作用してしまうことも往々にしてあります。言い換えれば、「自己の優越性」を確認したいがために「他者を恣意的に」認識し、それを「装われた客観性」で根拠づけてしまおうとする、ということになるでしょうか。

今回「異文化理解」の論考に私をお誘いくださったわたりとりさん「異文化交流考察>穴・断層・スタート地点・破壊」で、このように書かれています。

きっと私達が他者(異文化者・異文化集団)と接触したとき、多数の人が最初に感じるものは恐怖なのだと思う。自分のなかに築いてきた「軸」を破壊されるのではないか、自分のなかで養ってきた「価値」を犯されるのではないかという恐怖。(海風さんの過去記事に「軸の再構築」ってなかった?探したけど見つからなかったorz)この恐怖から早く抜け出すために、相手を「理解したつもりになる」のではないか。「理解すること」は心理上、対象を「支配すること」にかぎりなく近いから

そのさい、相手を自分より劣位に位置づけた「理解(決め付け)」を行えば、恐怖は「偽りの優越感」によって速やかに代償されるでしょう。
(一部リンク部分を省略しています)

大学時代に法学部とはいいながら国際関係論のゼミに身を置き、政治思想史を生かじりしていたせいなのか、私にとって「異文化理解」の論考の出発点は、「他者認定の恣意性」の危うさとその構造です。

「他者認定の恣意性」とその危うさ-今なお世界中のあちこちで他者抑圧的に働く様々な精神作用-それは「差別」や「偏見」と呼ばれていたり、特定の人種・民族・国籍の人に投げかけられるヘイトスピーチと呼ばれていたり、また、その差別意識ヘイトスピーチを背景にした戦争や地域間紛争等々、多種多様な形で現れています。

ならば、そういう「ネガティブで恣意的な他者認識」とその連鎖が具体的にはどういう経過で形成されていくのか、「多様化の時代」であるとか言われていながらもなぜ後を絶たないのか…についての論考がこのシリーズのテーマです。

そのためには、まず「ネガティブで恣意的な他者認識」の「危険性」について具体的な考察を、以下の論考を参考にしながら進めていきたいと考えています。

・暗い闇の中から見ている者 ~高橋和巳エッセイ集「人間にとって」から「差別について」
・他者認定の難しさ、「装われた客観性」 ~いわゆる「ヘイトスピーチ」について
・作られた他者、作られた自己 ~三島憲一氏の論考「作られた『他者』」から

そして、ここまで終わった段階…「ネガティブで恣意的な他者認識」の「危険性」について考えた後が「本当の始まり」だと考えています。リテラシ」という概念を他者認識にまで当てはめるとするなら、それは「いかにしてダマされないか」だけでは半分であって、「どうやって、どこまで理解するか」ということも必要だと思うからです。その答えを、「異文化理解」の議論の中で見つけられれば、と思っています。


何か…大変な「大風呂敷」を広げてしまいました。こういう記事をいずれは書いてみたい…とは思っていましたが、よもや1年ちょっとで書き始めようとは……。ともあれ、「異文化理解」の議論のステージにぼくという「オタッキーブロガー」を引きずり上げてくださったわたりとりさんには心からのお礼を申し上げたいと思います。


イメージ 3

加古川橋梁(厄神駅北)