▲「ヘルメットを被ったアーバン・カウボーイ」鈴木亜久里

今回の「古館語録」は…お待たせしました(?)………我らが「電気系統」鈴木亜久里氏です。

亜久里さんは、言わずと知れた「F1表彰台男」。1990年日本GPで達成した日本人F1ドライバー初の表彰台・3位入賞は2004年アメリカGPでの佐藤琢磨の3位表彰台と並んで日本のモータースポーツ史上に輝く大記録です。8年間のF3生活、F1デビューの89年は全戦予備予選落ち、3位入賞を果たした後もなかなかマシンに恵まれず、さらに最後のシーズンとなった95年(リジェ)はシートをマーティン・ブランドルとシェアさせられる羽目になるなどそのレース・キャリアは苦闘の連続でした。それでは、ファンキーな(?)亜久里フレーズ、行ってみましょう。


(1)ヘルメットを被ったアーバン・カウボーイ


「アーバン」と「カウボーイ」の語感のギャップというか何とも言えない落差が絶妙、といったところでしょうか(笑)。スマートっぽいけれどどこかバタくさくて、というイメージそのままのフレーズですね。しかし亜久里さん、現役の頃も、チームを率いてF1に帰ってきた今も「濃い」なぁ…。


(2)フジヤマ・スピードボーイ

(3)ネオ・ジャパネスク

(4)新生ジャポニズム


来た(笑)。(2)は「フジヤマ」の後にスピード「ボーイ」と敢えて陳腐なフレーズを畳みかけるように続けて却ってインパクトのある仕上がり(爆)。(3)(4)は「ジャパネスク」だの「ジャポニズム」だの何かよく分からないけどフルタチさんがしゃべると何故かそうか、と納得してしまいました。これらのフレーズ、敢えて「ヨーロッパから見た日本」目線で語ってみせたところがポイント。それはやはり亜久里さんがフランス人のクオーターだからでしょうか。


(5)日本多国籍男

(6)F1コスモポリタン

(7)F1日本大使館


これまたそれこそ(6)コスモポリタンなイメージの亜久里さんのキャラクター(設定してるのはフルタチさんでしょうけど)そのままのフレーズ。そういえば、当時氏が出ていた東芝のパソコンDynabookのCMは、外国でビジネスする亜久里さん、というイメージでした。


(8)走るメンズ・ノンノ

(9)新人類代表

(10)スーツ姿は新宿タカキュー


(8)はアレッサンドロ・ナニーニにも使われたフレーズ。いずれも何かバブル末期の匂いが濃厚な感じでしょうか。(10)の「スーツ姿は…」よく似合う亜久里さん、でもいきなり「新宿タカキュー」(亜久里さんのパーソナル・スポンサー)とベタなフレーズがまたイイ感じです(笑)。


(11)日本のフロントランナー

(12)ネオ・カミカゼ

(13)ゼロ戦ファイター


(11)はまぁいいとして、何でこう(12)(13)みたいに日本人ドライバーはこうなるんでしょうか。右京さんの記事でも書きましたが…中嶋さんが「地を這う戦艦大和」とか。いや、第二次大戦、日本負けたはずなんですけど…。


(14)F1牛若丸


身長180cmの人間つかまえて「牛若丸」はないだろう、「牛若丸」は(爆)。


(15)有言実行男


「表彰台に登ってみせる」とうそぶき(?)見事公約を果たした亜久里さん、その次のステップはフェラーリに入って、F1は35歳くらいで引退して、その後はチームオーナーになる」というものでした。90年の鈴鹿で表彰台を射止めたときも「中嶋さんがリタイヤしたときよりも悔しい」とファンに言われれてしまう亜久里さん、「またホラふいとるぞ」との声しきりだったのですが……フェラーリ入りを除いて全部そのとおりになってるなぁ…(1960年生まれの亜久里さん、引退した95年でちょうど35歳だった)。


(16)苦しい時のアグリスマイル

(17)日焼けした苦悩する黒豹


彼のF1キャリアの中で、考えてみれば90年以外はいずれも苦しいシーズンでした。いつ見てもこの世の終わりみたいな暗い顔をしてたのはステファーノ・モデナでしたが(笑)、なぜかTVの前に出てくる亜久里さんには不思議なほど悲壮感が感じられなかったのはキャラクターのなせる技でしょうか…。(17)はちょっとカッコよすぎ。


(18)顔はキレカジ、心は浪花節

(19)容姿は国際派、気性は日本晴れ!


また来た、フレーズの和洋折衷(笑)。「新人類」とか「ドライとか」「性格悪い」(?)とか言われていた(そうか?)亜久里さん、90年の活躍で91年はベネトンの3年契約がほとんど本決まりだったそうですが…スポンサーの東芝と何よりもラルースから「泣きつかれ」、結局は振り切れずに移籍を断念してしまったのは確かに「浪速節」だったのかも。


(20)中嶋が演歌なら、亜久里はニューミュージック

(21)中嶋がご飯にみそ汁なら、亜久里はフレンチトースト


同時期にF1を走った(88~91年)中嶋さんと亜久里さん、やはりお互いに相当意識していたようで…90年のメキシコで好調だった中嶋さんがタイヤブローで遅れた亜久里さんと絡んでリタイヤしてしまった直後などは、川井さんのインタビューに対して相当「怒りを押し殺して」受け答えしていたシーンが放送されました。

「どこか悪くて、避けてたんでしょ、だったらそのまま避けててほしかったね」と怒る中嶋さんに「タイヤがブローしてたから、ピットに入って交換すればまた走れたんだよ。オレはちゃんと端っこに避けてたのに、中嶋さんがドーンとオカマ」と応酬する亜久里さん…。91年の鈴鹿・中嶋ラストランでは期せずしてアタック中の中嶋さんをクールダウン中の亜久里さんがバッチリブロックしてしまった形になってしまいました。その瞬間、現地では亜久里ファンを名乗った瞬間に秒殺されかねないほどヒート・アップしたのだとか…。

インタビューでは、中嶋さんの方は多くは語らなかったようですが、一方の亜久里さんは「川井ちゃん、スタート前は気にしないでオレにどんどんインタビューして。オレはちゃんとスタート前もマインドコントロールして平気だから、どんどんTVの前のファンに向けてしゃべりまくるから」「今日もオレはガンガン攻めて行くよ。タラタラ走んないから」…どう考えても中嶋さんへの当てつけでしょうね。


(22)オリバーくん


そのまんまです。何も付け加えることはありません…いや、「何ですかマン」とかカスタネットマンでもいけそう(笑)。


(23)きざみ納豆走法というのは中嶋さん一代なんですが、少しずつ少しずつ亜久里さんが刻んできてますよね


92年開幕戦・南アフリカGPでの解説者として登場した中嶋さんへのフルタチツッコミ。こういうネタ振りをされた中嶋さんはどう答えればいいのでしょうか(笑)。


と、ここで、今回は「特別編」として亜久里さんの名語録集をいくつか拾ってみたいと思います。

まず、有名なのはあの「七色のいいわけ」。

鈴木亜久里・七色の言い訳集】
1)エンジンが・・・
2)サスペンションが・・・
3)電気系統が・・・
4)トラフィックが・・・
5)オレ、よけてたのにいきなり後からどーんってオカマだもん
6)あいつら人から金取ることしか考えてないんだ
7)まあ、しょうがないよね

それから、後はこういったところでしょうか。


嬉しいッ! もう走ってて嬉しいッ!ですよ…


1990年開幕戦、アメリカGP(フェニックス)で、予備予選を通過した後のインタビューで。フルシーズンのF1デビューとなった89年はザクスピードで全16戦予備予選落ち。この頃予備予選に臨んだマシンは12台、うち公式予選に進めるのはわずか4台という激戦でした。年末の89年総集編での城達也氏のジェットストリームなナレーションによれば…「ザクスピードヤマハは…まっすぐ走らない、曲がらない」(爆)。パーソナル・スポンサーだったエスポの伊東和夫氏が見かねてフランスのラルース・チームを買収、90年亜久里氏はようやくまともに走るマシンを手にした、というわけでした…。


…で、ここでオレが「ウレシイッ!」って泣けばいいわけ(笑)。いやぁでも嬉しいですよ


これは初入賞の90年イギリスGPでのレース後インタビュー。開幕戦の「嬉しいッ!」がちょっとした名言化していたために亜久里さん自らボケてみせた、といったところでしょうか。でもその後が泣かせる。「いやぁ、ヨメと約束してたから、子供が生まれる前に入賞するって」。



30歳の誕生日を祝って貰った席上で。赤いクマの巨大ぬいぐるみのレーシングスーツが赤色だったのを指して。「いやぁーもうオレはフェラーリには行けないから代わりに作ってもらったんだ」。どうやら「オレはいつかフェラーリに行って35歳でF1引退する」発言にツッコミを食らったかららしい?


オレってチャンスは少ないけどソレをつかむのは上手いでしょ?


91年開幕戦アメリカGPで6位入賞の後のインタビューで。「6位」といってもこのケースは…チーム名登録のミスを突かれてラルースは90年のコンストラクターズ・ポイントを剥奪、しかも資金難に加えて91年用のマシンは開幕戦のレース・ウィーク直前にフェニックスの飛行場でようやく…という状態の中の入賞ですから、いかに驚異的だったかがわかろうもの。しかしこの後は……。でもスーパーアグリF1参戦までの経緯を振り返ると、確かにこの人の運の強さというか粘りには凄みすら感じてしまいます。


次回は…後に93年の終盤2戦、同じくラルースからF1に参戦した1995年全日本F3000選手権チャンピオン、鈴木利男氏の予定です。


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1990年日本GPで表彰台を獲得した鈴木亜久里のラルース=ローラ90・ランボルギーニ 2004年日本GP


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「次、ないんだ」~94年TI(岡山)ジョーダンからスポット参戦、リタイヤ後の津川哲夫氏インタビュー