▲ミハエル十番勝負Vol1:1991年ベルギーGP~電撃デビュー

1991年8月23日・金曜日……シーズン終盤にさしかかったF1第11戦ベルギーGP・スパ=フランコルシャン。


弱冠22歳の若者がこの日F1デビューを果たした。サーキットからも近いベルギー国境近くのドイツの街・ケルペン出身の若者の名は、ミヒャエル・シュマッヒャー。

彼の電撃F1デビューの舞台となったのはこの年からF1参戦を果たした新興チームのEJR(エディー・ジョーダン・レーシング)…とはいえ、既に国際F3000選手権ではジャン・アレジをチャンピオンに導いた実績あるチームで参戦初年度から入賞を重ねる実力派。F1に始めて足を踏み入れるルーキーにとってはおあつらえ向きの場所と言えた。なにしろかの「サーキットの通り魔」にして「人間スクラップ工場」(笑)の「スピードのセクハラ男」アンドレア・デ・チェザリスがものの見事に「走り屋」として生まれ変わったほどなのだから。

シーズン途中に彼へF1のシートが回ってきた背景には…ジョーダンのチーム事情-セカンド・ドライバーがシーズン途中で収監される-があった。ベルトラン・ガショーは、開幕前ロンドンでタクシー運転手との間で口論となり、イギリスでは禁止されている催涙スプレーを使ってしまうといったトラブルを起こしていた。で、裁判の結果有罪となり、入賞3回、4ポイントというデビュー3年目にして初のポイントを挙げた彼のキャリアは突如断たれてしまうことになる。そのベルトランの代役として抜擢されたのがミヒャエルだったのだ。


1990年のドイツF3チャンピオンにしてマカオGPウィナー、そしてザウバーメルセデスのジュニアチームのメンバーとしてグループCスポーツカーに乗り、プロフェッショナルのレーシングドライバーとしての英才教育を受けていたミヒャエルは紛れもない若手ドライバーの中のエリートだった。果たして翌土曜日、いきなりシングルグリッドの予選7位。これには辛口で鳴らすF1ジャーナリストや関係者も度肝を抜かれた。何せ当時の予選上位8台は…マクラーレン(セナ、ベルガー)、ウィリアムズ(マンセル、パトレーゼ)、フェラーリ(プロスト、アレジ)とベネトン(ピケ、モレノ)で決まっているようなもので、その中の「順列組み合わせ」でしかなかった。その中の一角にいきなり食い込んでみせたのだから、「コイツは”タイガー”だ」と誰もが思ったに違いない。

そして迎えた決勝レース、ミハエルはいきなりスタート・ダッシュでいきなり5位にジャンプ・アップする。彼の前を走るのは…ポールの故アイルトン・セナアラン・プロストナイジェル・マンセル、そしてゲルハルト・ベルガー…いずれも当代きってのスーパー・スター揃いだった。と、その直後、ミハエルはいきなりクラッチのトラブルで戦列を離れ、デビュー戦は「0周リタイヤ」というほろ苦いモノになってしまった。でも「やっちゃったよなぁー」とばかりにニマニマ笑みを浮かべながら堂々と引き上げてきた姿は文字どおり新人離れしていた。


その彼の戦いぶりに目を付けたのが、当時ベネトンを率いていた「F1界のブルート」「ニューゴッドファーザー」フラビオ・ブリアトーレ。彼はメルセデスのバックアップも受けたのか、すぐさまミハエルにアタックを仕掛け、ベネトンへのこれまた電撃移籍を発表してしまう。そして次戦モンツァではベネトンから出走したミヒャエルは早くも5位入賞を果たし、続くポルトガル、スペインでも連続6位入賞とファイターぶりを見せつけた。続く鈴鹿と最終戦オーストラリアではリタイヤに終わったものの、終盤6戦で入賞3回、4ポイント…しかも予選は全てトップ・テン・グリッド。フジTV実況のフルタチさんが早速彼に付けたキャッチ・フレーズもまた奮っていた……曰く、

*F1サイボーグ
*ドイツ、自動車王国の申し子、背後霊はベンツ
*スピードの無礼講

デビュー前のこの年の7月、全日本F3000選手権第6戦(SUGO)にチーム・ルマンからスポット参戦…予選用タイヤも難なく使いこなし(同時期に全日本F3000で走っていたジョニー・ハーバートは上手く使いこなせずに苦しんでいた)、当時主流から外れていたラルトのシャーシにも関わらず決勝2位という驚異的なパフォーマンスを見せ、日本のレースファンにも存在をアピールしていた。しかも先輩ドライバーに対しても全く物怖じしないグレートな態度(まさに「スピードの無礼講」)。インタビューでも次のような談話を残している。

ボクの名前は英語風に「マイケル・シューマッハ」と呼んでくれ。
(何しろ英語で話しているときは名前も英語風に呼んでくれないと調子が狂うからだとか)

みんなボクのことを「セナ二世」とか言うけど、ボクはボク、シューマッハだ。

後のコメントの方は、早速「レーシングオン」誌でネタにされていた。

オレはセナ二世なんかじゃない、ルイ14世だ、ハハハハァ!!
(何でこんなことオレ憶えてるんだろう…アホか)


と、書けばデビュー当時から大物のヲーラが出まくりで、次代のチャンピオン候補と目されていた…というのは必ずしも間違いではない。しかし当時は、グループCでは同じメルセデス・ジュニアチームのハインツ=ハラルド・フレンツェンが、そしてF3ではイギリスF3チャンピオンのミカ・ハッキネンが最速とされており、むしろ彼らのポテンシャルの方を買う関係者も多かった。しかしハインツはステップ・アップを焦るあまりメルセデスを出奔してしまい、ミカは91年にロータスからF1デビューを果たすものの、当時のロータスはまさにドツボの状態にあった。

その間隙を縫ってミハエルは「しかるべき時にしかるべきチームで」F1デビューを果たし、すぐさま結果を出してみせた。とはいえこの時は、まさかこのアゴのしゃくれたゲルマンの若者が、アラン・プロスト最多勝記録を大きく塗り替えることになろうとは、まだ誰しも思ってもみなかった……

……って今回は枝葉ばかりですいません(爆)。



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91年ベルギーGP、F1デビューを果たしたミハエル(右)。左はエディー・ジョーダン

◎PadokF1.com(http://www.padokf1.com/haber/12168) より
<トルコのF1サイト>

【参考リンク】
◎F1-facts.com -Spa Francorchamps 1991
(http://f1-facts.com/results/race/1991/Spa_Francorchamps)
~前から5台目のNo.32の深緑のマシンが、ミハエルがドライブしたジョーダン・フォード。