▼わたしとあなた、あなたとわたし~「他者」を理解するということ:補論

前回記事での論考では、鉄道車両のラッピング塗装を「テキスト」にして、「他者認識」=「異文化理解」の構造について概観し、今後の論考は「ネガティブな他者認識」の危うさについてまず進めていく、ということでしたが、簡単には次の3点にまとめられます。

*「他者認識」とは形を変えた「自己認識」でもあり、言い換えれば自己認識へのスタンスが他者認識のあり方を決める。
→「他者認識」=自分を映す「鏡」
*「他者認識」は、しばしば「他者からの認識」によってそのストーリーの見直しと再構成を迫られる。
→「見る・見られる」
*その際、「ストーリーの再構成」を急ぐあまりに、他者抑圧的に働く「ネガティブな他者認識」となることがある。
→「自己の優越性」を確認したいがために「他者を恣意的に」認識し、それを「装われた客観性」で根拠づける。

前回記事では文章だけで少々わかりにくい所も多分にあったかと思い、「他者」と出会ったときに感じた「偏差」へのスタンスと自己基準(認識)へのスタンスをキーに下のような表にまとめてみました…。「他者(異文化)認識」の例は、わたりとりさんの「異文化交流考察>穴・断層・スタート地点・破壊」にも掲載されていた、海風さんが「異文化コミュニケーション論 -コミュニケーションの駆動力-」で作成されている「心理状態と行動に関する考察」の表から取らせていただきました。

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上の表で、「1 自己基準へのスタンス」+「2 偏差へのスタンス」→「3 他者(異文化)認識」のモデルパターンは概ね次のように考えられます。

*1(1)→2(1)→3(1)(2)(3)………共存/尊敬/親交
*1(2)→2(1)→3(1)(2)(3)………共存/尊敬/親交
*1(2)→2(3)→3(3)(4)(5)………親交/儀礼的無関心/無視
*1(3)→2(2)→3(6)………………同化圧力
*1(3)→2(3)→3(1)(3)(4)(5) …共存/親交/儀礼的無関心/無視
*1(3)→2(4)→3(4)(5) …………儀礼的無関心/無視
*1(4)→2(2)→3(6)………………同化圧力
*1(4)→2(3)→3(1)(3)(4)(5) …共存/親交/儀礼的無関心/無視
*1(4)→2(4)→3(4)(5) …………儀礼的無関心/無視
*1(4)→2(5)→3(5)(7)(8)………無視/攻撃/対立

ここで、「3」が複数パターンあるのは上の表での判断材料(根拠付けのリソース)がどうやって動員されるかによる、と思われます。お互いの出身地や性別、年齢、社会的な階層とか…と書いてくると「ストーリー構築のキー」になるのはこっちで、上の表は骨格、と言ったところでしょうか。ちょっと荒っぽい図ですが、前回の記事に具体的な例示を付けて図式化してみました…至らぬ所はまた、この記事に追記していくか補論をもう1回書いてみようかと考えています。




ここで、ちょっと蛇足になりますが……一点だけ。実は前回記事で下書きのメモには入れていたのですが……この「異文化理解」の論考の意味は何か、自分がまず「ネガティブな他者認定」の危険性とその構造について考える意味は何か…というと、わたりとりさんの記事「異文化交流分科会-【魚のアタマ】考(2)」へのはてなブックマークコメントにも書いたとおり、特定の人の個別具体の言説を揶揄したり「裁いたり」するためではなく、異文化の交流・理解を阻む要因の考察と交流促進への道を模索することです。

だから、「ネガティブな他者認識」を自分とは関係のないものとするのではなく、他ならぬ自分自身がいつでも、もしかしたら知らず知らずのうちにはまり込んでしまうかも、という問題意識とともに論考を進めていきたいと考えています。論考の「起爆剤」は現実の言説であったとしても、それ自体を単に論難するためにこの論考を進めてしまうと、論考自体が悪い意味での「政治性」「党派性」を帯びてしまうことにも留意しなければなりません…。


………まぁ、いいや、もうちょっと書いてしまおうか。


私自身は、「自らの言説の正当性のみを強弁して、異論を対等のものとして見ようとしない」言説や、「自らと少しでも違う考え方に対して、まるで糾弾するかのようなヒステリックな」言説……そういったインテレクチュアル・オネスティに欠け人を傷つける言説を見ると「それって一体何やねん」と憤りを覚えます。かといって、その言説や言説をした人そのものにこだわり、許しがたいものと思うあまりに、元々の論点を見失ったり自分自身もまた同じような言説をしてしまうのも恐い、と思っています。そういう自分自身は一体何ものなのか。「いかがなものか」「ちょっと待たんかい」とダイレクトに異議を唱えることも時には必要だとは思うのですが(というか、対向言論自体を封じる理由はないです)、少なくともこのシリーズでは、一歩後ろに下がってみて、「それって一体何やねん」の「何」について考察するというアプローチを取ってみたいと思っています。