▲1995.10.28・SUZUKA

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HAT神戸、2006年8月



1995(平成7)年10月28日朝……ぼくは三重県鈴鹿サーキットで、130Rの自由観戦エリアへ向けて急な坂道を歩いていた。F1世界選手権第16戦日本GP・土曜朝のフリー・セッション。各マシンはそれぞれ午後の予選に備えコースインしてはチェックを繰り返している。セッションの間、マシンの姿は見えなくても、彼…そう、オーストリアのチロル出身の彼が周回を重ねていることはサーキットのどこにいてもはっきりと分かる。彼のマシンの放つサウンドは、他のチームのクルマが出すサウンドより1オクターブ以上は高く、同じマシンを駆る彼のチームメイトよりもさらに力強く、耳にはっきりと残像を残していった。

土曜日午後1時、公式予選のセッション。

ぼくは逆バンクからダンロップ・コーナーへと立ち上がっていくあたりの自由観戦エリアで、最前列の金網にしがみつきながら彼を待っていた。本コースに最も近く、マシンの姿とエンジンのサウンドを最も身近に感じられる場所だったからだ。そしてここは、目の前を250km/hオーバーでコーナーを駆け上がっていくマシンと、シケインから最終コーナーに向けて立ち上がっていくマシンの咆吼が絶妙に調和する場所でもあった。

そして…ピットを出て路面の感触を確かめるように丁寧にマシンを進める彼が逆バンクに現れ、ダンロップを駆け上がり、デグナーの彼方に消えた。その約1分後、シケイン・スタンドでエアーホーンが不意に鳴り、彼の赤いマシンが翻る姿が見え隠れする。それから一瞬おいて…メインストレートを加速していく様子が見て取れた……と、そこかしこでタイム・アタックを繰り広げ疾走する各マシンの爆音の隙間から、場内実況アナのヘンリー祝春樹氏がシャウトする声がとぎれとぎれに聞こえてくる。


「さぁ!………がタイム・アタックに入ります!」

1コーナー、2コーナー、そしてS字……V12気筒エンジンが放つ甲高いカンツォーネが聞こえてきた。

最初はかすかに、次第に強く、何度も、何度も、寄せては返す波のように。オーケストラが奏でる曲がクライマックスに近づいていくかのように、まるでマシンが激しくむせび泣いているかのように。

と、次の瞬間、激しい音の波動とともに、彼がフェラーリ412T2を渾身の力で煽り、アジリ倒しながら深紅の塊となって逆バンクに現れた。カーナンバーは奇しくもぼくが住む兵庫県都道府県ナンバーと同じ28番。


タイムは1分39秒040で5番手…ポール・ポジションは前戦のTI英田で2年連続のタイトルを決めたミハエル・シューマッハ(ベネトンルノー)。でもマシンの音と迫力、そしてコーナーに飛び込み、立ち上がっていくレーサーとしての姿は、ぼくの中では断然彼の圧勝だった。同じマシンを駆る「ジル・ビルヌーブの27番」を受け継いだジャン・アレジ(予選2位)ですら、この瞬間に限って言えばものの数ではなかった。

デグナーへと遠ざかっていくカーナンバー28のフェラーリの残像を追いながら、ぼくはこの数ヶ月間にあった諸々のできごとが、心の中のB2階へゆっくりと、少しずつ、そして優しく溶け込んでいくのを感じていた……。「癒される」というのとは少し違う、何か違った奇妙な感情。

そして、この時から、カーナンバー28のフェラーリを駆る彼……ゲルハルト・ベルガーは「1月17日のあの時」の記憶とともに私にとって「忘れえぬ人」となった。