▼押しつけないことを押しつける? -わたしとあなた、あなたとわたし:補論(2)



異文化交流考察シリーズ、そろそろ第2考「差別について」へいきたいところですが、その前に「補論」の追加として、あと補足を2点ほどしておきたいと思います。それぞれ長くなりそうなので、2回に分けます。今回は、前回記事のコメント欄で話題となった、「『押しつけないこと』を押しつける」についてです。


1 「押しつけないこと」を押しつける…?


前回記事の「補論」トンコさんから次のようなコメントをいただきました。
よく迷路に入っちゃいがちですが、「決め付けは良くない」→「決め付けは良くないと決め付けるな」とか、「まず異論を対等に見よう。押し付けは良くない」→「そういう意見を押し付けてる」という返しはどうなんでしょう?
(コメント:2006/12/30(土) 午後 5:11)
(太字はo_keke_nigelによる)←この表記忘れてました、ごめんなさい(07.01.24)

ここで私は「これはまぁいわゆる一つの『自己言及のパラドックス』のトリックですね…」云々とコメントを返したわけですが、その後、わたりとりさんからも「『合わせ鏡を覗いてしまう』ということですかね。」とコメントをいただきました。

この「『決めつけは良くない』と決めつける」「『押しつけは良くない』ということを押しつけてる」という返しは言うまでもなく対抗言論を封じようとするトリックなのですが、確かにこのフレーズにはリターンエース的な威力はあって、特に言われた側が内省型であれば効果てきめん、まさに合わせ鏡をのぞき込んでしまって動けなくなってしまいます。


2 この「トリック」のポイント


この「トリック」の「キモ」は、「…は良くない」という部分に反応して「押し付けは良くない」をある種の定言命題(無条件の命令)として投げ返すところにあります。ですから例えば「押しつけは良くない、は押し付けてもいいの」というリターンバックは「押し付けたい人」にとっては「待ってました」という反応であって、「オマエも人のことが言えるのか」とその後は自尊心バトルの無限ループが待っています。

「決めつけは良くない」「押し付けは良くない」という言説が有効であり得るのは、暗黙の前提が組み込まれている仮言命題である場合です。つまり例えば「議論をしたいのであれば」「対話をしたいのであれば」という条件付きの命題である場合です。決めつけるのも押し付けるのも確かに自由でありその人の勝手なのですが、「異論について、なぜそうなるのか理解したい」のであれば「決めつけたり押し付けたりするのは良くない」ということなのです。

逆に考えれば、この「決めつけや押し付けは良くない」は「議論」においては有効であっても、相手が議論を勝ち負けと考えていたり(これはディベートというべきでしょう)、センス自慢のメタゲーム(要するに「オレの方が**をオマエより理解している」という争い)などでは必ずしも受け入れられるとは限りません。自分では「異論もフラットに考えようとする」議論のつもりであっても、相手は「センス自慢のメタゲーム」や「自尊心バトル」を仕掛けている、ということは往々にしてあります。また、自分は議論のつもりで始めても、知らず知らずの間に勝ち負けに移行してしまっていたり…ということもあるかもしれません…。


3 議論なのか、何なのかの見極めと対処のありかた


そこでまた問題になるのは…議論(ここでは異論もフラットに考え、その差異のありようを理解しようとする、という意味で使っています…自分的には「対話」もここに含めています)を望んでいない相手に対してどういう言説がやりとりできるか、ということになりますが、さしあたっては「いったん話をうち切る」しかないと思われます。ただ、「どの時点でうち切るのか」…ある程度相手の言説を「判断材料」として集めてからなのか、「話が通じない」と判断した時点で即座にうち切るのがいいのか、見極めが難しいところで、撤退のタイミングを逃すとそれこそ相手の煽り言説に乗せられてしまう自尊心バトルやセンス自慢のメタゲームに巻き込まれ、「カロリー過多の言説」をぶつけ合ってしまうことになりかねません。いや、場合によってはこういうのも異論を理解するための過程としては必要なのかな。

また、言うまでもないことですが、この「決めつけや押しつけは良くない」という言説そのものを、他者の異論の理解を深めるためではなく、対抗言論を封じるためのツールとして使った場合は、文字どおり「単に矛盾した言説」としてこのトリックを返されてしまうだけ、ということになります。

「補論」の他者認識のモデルにこの話を落とし込んでみると、「決めつけや押しつけは良くない」とは…最低限「2 『偏差』に対するスタンス」の「(3)偏差は偏差として認める」の状態でないと成立しないメンタリティ、といえるでしょう。



4 参考にさせていただいた考察・論考



(1) 「モヒカン族」に関する言及.552(Group Mohican:otsuneさん)
~まさに「押しつけないことを押し付ける」という言説に対する言及。この言説のトリック性を簡潔かつ的確に表した論考。
「なぜならモヒカン宣言の自己言及メタレベルを一段階解体してしまっているからです。」
「証言の真偽を解釈するときにクレタ人かどうかを真偽の構造に組み込んでいるという初歩的なテクニックですね。」


(2) 自己言及のパラドックス -Wikipedia
~「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った…という有名なパラドックスをはじめとする様々な自己言及のパラドックスについて解説。今回の記事に関しては「相対主義の自己矛盾」の説明がわかりやすいです。
しかしながら、相対主義の主張をいま一歩踏み込んで検討してみるなら、相対主義者自身は自身の主張が相対主義者にとっては正しく、相対主義者でない者にとって正しくなくとも何ら問題ではなく、この批判は相対主義者にとって重要性を持つとは言えない。すなわち、相対主義の「絶対に~ない」において重要なのは、如何なる準拠点(個人/文化/社会/主義/歴史観/自然観/概念枠…等々)に即して正しい/正しくないのか、という準拠点への注意の喚起にあるからである。逆の観点からすれば、この種の相対主義批判は、批判者の側の主義への自己言及をなしているという点で興味深い。
(太字はo_keke_nigelによる)


(3) みーんな倫理とかすきナー(michiakiさん)
人力検索はてな「なぜころ」への各回答に対する感想。コメント欄でのid:jounoさんの指摘が面白い。つまり「~してはいけない」は、(A)事実としてのルールや道徳、法律etc...という領域と、(B)そのルールや道徳等を守るかどうかを選択するという倫理的領域に分かれる、と。そして(A)(B)は互いの論拠とはなり得ず、michiaki氏はそこのところを混同しているのではないか、(A)の論証によって(B)を論証=正当化できると思っているのではないか、という指摘です。

実は今回の記事のテーマである「自己言及のパラドックスというトリック」を解くきっかけは(3)記事のjounoさんのコメントでした。要するに、条件付きの仮言命題を無条件命令の定言命題と混同してしまうところに問題がある、ということです。otsuneさんの「自己言及メタレベルを一段階解体」「証言の真偽を解釈するときにクレタ人かどうかを真偽の構造に組み込んでいる」、wikipediaの「相対主義批判は、批判者の側の主義への自己言及をなしている」もここのjounoさんのコメントでつながりました…。参考までに「なぜころ」に対するjounoさんの回答は■りんり淋漓と天上大風にあります。


(4) はてなブックマーク -nigel's bookmark for bookshelves /自己言及パラドックス
~「自己言及のパラドックス」関連の記事をブックマークしたものです。




次回の「補論」は、はてなブックマークと「見る-見られる」の予定です。そしてその次に第2考「差別について」に論を進めていきたいと思っています。