▲「ステップニーゲート」の倫理と論理(5)~F1界の「倫理」としての「コンプライアンス」

1 今シーズンの「総括」


今年のF1グランプリは、「コース上では」確かに白熱した戦いだった。

実際マクラーレンフェラーリの「二強」の4人のドライバーが入れ替わり立ち替わり勝利を収め、キミ・ライコネンの6勝を筆頭にマクラーレンフェルナンド・アロンソルイス・ハミルトンが4勝ずつ、そしてキミのチームメイトのフェリペ・マッサが3勝をマークした。

この展開は、特定の1人か2人かが勝利を独占し、あとは1勝か2勝のドライバーが若干、といった長らく続いてきたチャンピオンシップのパターン(2004年チャンピオンのミハエル・シューマッハは一人で18戦中13勝をマーク。残りはチームメイトのバリチェロが2勝、モントーヤトゥルーリライコネンが各1勝)からすれば異例とも言うべき白熱ぶりだったといえるだろう。


そして、タイトル争いも一時は23点差がついたルーキーにしてシリーズ・リーダーをひた走っていたルイスを終盤4戦でキミが淡々と爆走しつつ猛追し、ついに最終戦マクラーレンの2人を1点差で押さえて悲願の大逆転タイトル、と近年にない劇的な展開だった。

その他、今シーズンはコース上での「ピット・イン」ではないエキサイティングなオーバーテイクも随所で見られた。

後半戦は資金難から失速したものの、参戦2年目だったスーパーアグリのエース・佐藤琢磨がカナダGP終盤でトヨタのラルフを、そしてディフェンディング・チャンピオンのアロンソを次々とサイド・バイ・サイドで「ぶち抜いて」6位入賞をもぎ取ったシーンは今なお記憶に新しい。

また、そのアロンソが今度はマニ=クールでBMWハイドフェルトを抜きあぐねていると思いきや、通常では抜きどころとは考えられていない高速シケインで一刀両断に片付けてみせたシーンなど枚挙にいとまがない。

さらに、激戦区の中団グループでは、ルーキーながらコバライネンが7戦連続入賞というしぶとさを見せた。その他、ベルガー監督率いるトロ・ロッソも上海でベッテルリウッツィがダブル入賞、そして荒れたレースではレッドブルの「若き芽を摘むいぢわるおぢさん」のDC先生がスルスルと上位に進出した。

おまけにテール・エンダーの常連だったはずのスパイカーまでが豪雨のニュルブルクリンクではマイク・ガスコインの演出がズバリと決まってラップ・リーダーを務めるなど上位チームから下位チームまでそれぞれに見せ場を作った1年だったと言えよう(こういうときに限ってワークス・ホンダがドツボに嵌るとはなんというめぐり合わせの悪さか)。


2 「ステップニーゲート」と「コンプライアンス


しかしながら、シーズン序盤から中盤にさしかかったあたりから急遽浮かび上がった一大スキャンダルが。一方ではチャンピオンシップの興を大きく削ぐことになってしまった……それがここまで4回にわたって経緯を述べてきたフェラーリマクラーレンの2大チームを舞台とした「ステップニーゲート」だ。


実は書庫「論考のためのノート」の第1回記事「『社会的要請への適応』としてのコンプライアンス 」は、今回の記事の「前振り」のつもりで書いたものだった。

さる9月13日に国際モータースポーツ評議会でその前の裁定を覆してマクラーレンコンストラクターズ・ポイントの剥奪と約110億円という史上最高額の罰金という厳しいサンクションが与えられた時にはモータースポーツ界全体に大きな激震が走った。その後はフェラーリのナイジェル・ステップニー、マクラーレンのマイク・コフランという2人の上級エンジニアの逸脱した行動に対して、実際に司法の場で詳細に検証が行われる段階に入り、「FIAとしては」この問題には一旦幕が引かれた感がある。事実、このチームの機密情報漏洩スキャンダルに関して最も責を追うべきであろうと思われるのは、現時点での報道を見る限りではステップニー、コフラン両氏であることは論を待つまでもない。

しかしながら、その背景にフェラーリにおいては「ポスト・ミハエル-ブラウン体制」を巡ってのひずみのようなものが、マクラーレンでは正副両ドライバーの漏洩情報へのアクセスが明確になっていることを考えれば、前回記事の終わりでも書いたように「『ステップニーゲート』が、F1GPの構造的な問題としてとらえられるのではなく、『チームスタッフの一部』の引き起こした『個人的な非行』と『チームの管理責任』といった観点から処理されて」しまうのはいかがなものだろうか。

一連の「ステップニー・ゲート」に関する4つの記事はそういう観点から書きつないできた。この情報漏洩スキャンダルは、ちょうど「『社会的要請への適応』としてのコンプライアンス 」の中でも記したように、「ステップニー&コフランという個人が起こした「ムシ型」の不正ではなく、これまでのF1GPのあり方それ自体の中にある「カビ型」的な不正ではないだろうか。

一連の事件の中で問われているレギュレーション上の違反とは、直接的には「インターナショナル・スポーティング・コード」の第151C-条(モータースポーツ全体に不利益を及ぼす行為の禁止)に関わるもの、ということになるが、それでは、マクラーレンの「スパイ行為」が、単にスポーティング・コードに違反しているか否かという問題を超えて、一連のスキャンダルで問われているものとは具体的には何であろうか。


3 F1GPの「コンプライアンス」とは?


この「ステップニーゲート」で今回問われているものとは……一言にまとめるなら、まさに「F1GPのコンプライアンス」つまり「F1」という存在そのものに対する「社会的要請」だと思われる。つまり、「フェアで」なおかつWRCと並んで「モータースポーツの最高峰」にふさわしいドライビング・コンペティションを世に提供することである。

何を奇麗事を…という向きは確かにあるかもしれない。多くの関係者が関わり、巨額の資金が動くビッグ・ビジネスとしてのF1には、年に17回か18回ほどの華やかなお祭りを見ているだけのファンには窺い知れないものがたくさんあるのは実際そのとおりだろう。

「昨日の夜の話(つまり”女性”のこと)と金の話はするな」は、誰が言い出したのか知らないが、近代F1を語るときに必ず引き合いに出される「名言」である。また、かのフランク・ウィリアムズ監督がかつてイギリスを代表するモータースポーツ・ジャーナリストのナイジェル・ルーバック氏に語ったところによれば、「F1が本当にスポーツなのは日曜午後の2時間ほどだけだ」という、チーム立ち上げの頃、慢性的な資金難に苦しみ、金策の傍ら近くの公衆電話からチームの指揮をとったとされるフランクならではの「至言」も残されている。さらに、かつて「第二期ホンダ」の黄金期を支えた元総監督の桜井淑敏氏は「F1は栄光と虚像が49対51ぐらいの割合で交じり合っている」とこれまた「ヨーロッパの伝統」である「個人主義」に「チームプレイ」という名の集団主義体制で立ち向かった(肝は情報と利益の共有化だった…ここが「集団主義」が有効である条件だ)氏だから言える言葉も残っている。

しかし、なぜ「49対51」の「51」の側に生きるであろう私を含めたF1のファンがF1を見ようとするのか……それは「日曜昼の2時間」あまりのストーリーがスポーツ・エンターテイメントとして最高のテクニックとファイトに貫かれたフェアな戦いだからこそだろう。自分が応援しているチームが、ドライバーが勝てばそれだけでいいのではない。いやもちろん勝って欲しいのだが。F1とは、モータースポーツとはある意味「格差社会の典型」のようなものだ。しかしその中にあっても、テクニック一つでトップチームのクルマに立ち向かっていく「タイガー」が居て、またトップ・ドライバーは持てる限りの技術の粋を尽くして彼らの気持ちに応えていく。そして「本当に頑張ったやつ」がその努力と能力にふさわしい体制を得て「レギュレーション」という枠の中でタイトルに向けて爆走する……その姿が「見るスポーツ」としてのF1の魅力ではないだろうか。

「興行を盛り上げる」ための「政治的決着」は確かに分からないでもないが、本当に「盛り上げる」のであれば、それはフェアなプロスポーツ・エンタテイメントというコンプライアンスがあってのことだと思う。実際にF1は「きれいごと」だけではないのは全くそのとおりだと思うが、このことだけは改めて確認しておきたい。