▼差別とヘイトスピーチQ&A(4)「非寛容への非寛容」

Q7 差別やヘイトスピーチは確かによくないことだと思います。でも、そういう非寛容な言動に対して「差別するようなクズ」とか「ヘイトスピーチをするようなカス」とかいう罵倒で応えるのはどうなんでしょう?「非寛容に対する」非寛容な言動は、結局差別やヘイトスピーチをする側と同じ穴の狢ではないでしょうか?



問いの形を取っていますが、この設問者は、「同じ穴の狢だ」とおっしゃりたいのですね。

……という半畳はさておき、この設問は?b>「nigel's bookmarks for bookshelves/2007年10月26日(はてなブックマーク)」
でクリップした記事群を読んで設定しました。

で、「答え」ですが、もちろん「同じ穴の狢」ではありません。

もしそのように見えるのなら、好意的に考えて、その人は形式的な「普遍的相対主義」に過剰にとらわれているか、あるいは逆にある種の「政治的シニシズム」に取り込まれているかのいずれかでしょう。また、悪意に受け取るのであれば、罵倒の対象となっている非寛容な言動を実は支持していることをわかりにくくするためのメタ語りである、とも考えられます。

繰り返しになりますが、この問いは、拙稿「差別とヘイトスピーチQ&A(1)「差別する心」(Q1-Q2) 」Q2「『差別はいけない、と言った時点で差別をする人に対して差別をしている』というパラドックスに陥っていないでしょうか?」と似た構造を取っています。

つまり部分命題/仮言命題を全数命題/絶対命題と混同(時には意識的にすり替え)して投げ返す「”クレタ人は嘘つき”パラドックス」(または「自己言及のパラドックス」)です。この種の言説には、「押しつけるな、ということを押しつけるな」という基本形から始まって様々なバリエーションがあり、特に「理解と共感と内省」を志向する論者がこの技を仕掛けられると、往々にして合わせ鏡を見た時のような無限回廊に取り込まれて動けなくなってしまいます。

合わせ技として、「私はもちろん……には反対ですが」とか「私は……ではありませんが」と当の相手が批判している対象を「……」に代入して前に置き、「私はあなたの言い分それ自体にはに理解を示していますよ」というフラグを立てておけば効果はさらに上がります(もちろん、そのフラグは再反論封じのための「保険」としてのフェイントというかギミックなのですが)。


「差別とヘイトスピーチ」の例で考えると、上記の拙稿で以前私はこのように記しました。
この「差別してはいけない」というフレーズが言説として有効なのは、このフレーズに暗黙の条件が組み込まれている一種の「仮言命題」(条件付き命題)の場合です。例えば、「異質な他者を理解したい」「対等な他者としてつきあいたい」のであれば……「差別をしてはいけない」ということなのです。そしてこの「条件」は、いわば近代以降の市民社会の最もコアな概念の一つとして地域差はあれど次第に共有されてきた(はず/ことになっている)ルールです。
「差別とヘイトスピーチQ&A(1)「差別する心」(Q1-Q2) 」

このトリックでは、「差別してはいけない」に組み込まれている「暗黙の条件」を取り払ってしまい、差別する人に対してネガティブに作用する言説まで「差別」に組み込んでしまうのです。あるいは、「理解する」「対等につきあう」という言葉が多義的で重層的なフレーズであるところに着目して、最も厳しい意味、例えば「一切の批判を許さず全てを受け入れること」に置き換えてしまうのです。

平たく言い換えれば、「差別はいけない、といった時点で差別だ」は、最終的にはこういう意味に置きかえられます。

*「差別はいけない、というのであれば、差別している人を差別するのもいけない」
*「異質な他者を理解したい、というのであれば、差別している人も受け入れ、その言説を認めなければならない」
*「差別はいけない、異質な他者を理解したいと言うのであれば、黙ってその言説を受け入れろ、批判や反論は一切許さない」

要するに、黙って「差別主義者」や「レイシスト」が暴れ回ってヘイトスピーチをわめき立てるがままにしておけ、ということなのです。設問の「同じ穴の狢」さんの言説もまた同じところに着地します。


いや、そこまでは誰も言ってはいない、私は差別もヘイトスピーチにも反対だ、だからといって、かかる言説に対してに何を言っても、何をしてもいいというわけではないだろう……「正しさ」にこだわるあまり思考停止してしまっているのではないか、とこの技のナイーブな(決してセンシティブではない)練達の使い手は言うかもしれません。

差別にもヘイトスピーチにも反対、それはよかったです。ならばかかる優しき諸兄&諸姉にとって必要なのは、「罵倒だから」ということを盾にして差別やヘイトスピーチへの対抗言論にまで無差別誘導爆弾を打ち込むその前に、それぞれのやり方で、かかる非寛容な言説に対してまず明確に「No」と言うことです。「彼らの差別にも理由がある」というメタな議論や、「非寛容に罵倒では説得力がない」とかいう戦術や戦略に関する議論は、その後の話です。つまり、その「罵倒」はそもそも何に向けられているのか、そして、具体的で限定的な事例への言説と、「差別やヘイトスピーチ」全般にかかる一般論とをいったん切り分けて考えることが必要だと考えます。


<※注>具体的な事例の中で「寛容」や「理解」というビッグタームを使うことにはそれなりの言説の強度とそれらのフレーズが何を指し示すのかという前捌きが必要となってくるのは致し方ないところですが、それは次の第4論考「出会うべき”他者”とは」で考えていきたいと思っています。