▲「戦うテディ・ベア」ジャン・トッド




*今回の「古館語録」は、1993年シーズン途中から現在に至るまでスクーデリア・フェラーリの監督を務めるジャン・トッドです。

フェラーリ在籍13年を超えるキャリアはエースドライバーのミハエル・シューマッハ、テクニカルディレクターのロス・ブラウンと共にいわば「フェラーリの顔」と言えるでしょう。

1946年生まれのトッド氏は、元はラリーのコ・ドライバー(ナビゲータ)として活躍、1981年にはギー・フレクランと組んでタルボ・サンビーム・ロータスWRCランキング2位となり、その後タルボ・スポールがプジョーのワークス・チームとなると監督として活躍、グループBのWRC、パリ・ダカ、ルマン24時間、そしてグループCスポーツカーのすべてを制覇、その手腕を買われてフェラーリに招聘されるに至ります。

ちなみに、1981年のWRCを制したのはプライベートチームのフォード・エスコートを駆ったアリ・バタネンとコ・ドライバー、デイビッド・リチャーズのコンビですが、このWRCランキング1・2位の4人は、フレクラン氏が後のWRCシトロエン監督、トッド氏がフェラーリF1チームの監督、バタネン氏は後にトッド氏の元でパリ・ダカ3連覇を果たした後現在では欧州議会の議員となっています。そしてリチャーズ氏はプロドライブを興してスバルのWRC活動のオペレーションを引き受けてメイクス3連覇(95~97年)をマーク、一時期はBARの運営にも関わり、また2008年より「プロドライブF1」チームを率いてF1参戦が噂されるなど、いずれもモータースポーツ界のキーマンとして活動を続けています。



トッド氏はユーモラスなクマさん体型、でも中身はコミカルな体型に似合わず関わったすべてのカテゴリーでことごとくチームを栄冠に導いたねばり強い勝負師。どうしてもフェラーリでの「偉業」が目立ちますが、それ以前のプジョー・タルボ・スポールでの実績も凄まじいものがありました。

WRC、グループCスポーツカーもさることながら、圧巻はプライベーターの「アドベンチャー・イベント」だったパリダカを熾烈なワークス戦争に変えてしまったところでしょうか。すべてを勝利のために捧げる強固なチーム組織に裏打ちされた圧倒的な物量作戦と卓越したエンジニアリング、そしてドライバーはアリ・バタネン、ユハ・カンクネンといったWRCの一流どころを揃えるといった徹底ぶり。砂漠の中をボロボロに傷ついてサービス・パークに帰ってきたマシンも翌朝にはすっかりリペアされて新車同様にしてしまうというオペレーションはパリダカの人気下落さえ招いたほどでした。「難攻不落の伏魔殿」とまで言われたフェラーリの組織改革も時間をかけつつ遂に成功させたのも頷けます。

◆同じく古館語録の記事を書かれているタニーさん(タニーの雑記帳)「古舘語録③・ジャン・トッド」では、巨大なテディ・ベア人形の写真が掲載されています。いえ、トッド氏の人形ではありません、もちろん(笑)。でも何となく氏に似ているのは…クリスマス仕様の衣装を身にまとっているせいだけではないようです。


(2)ライオンから跳ね馬までの猛獣使い


「ライオン」とはもちろんフェラーリに来るまでに在籍していたプジョーのことですね(プジョーのエンブレムはライオンを象ったもの)。93年シーズン途中でフェラーリ入りの報せを、この年もドツボのマシンに苦しんでいたジャン・アレジはパリのカフェでぶータレて食事しながら聞いたと言います。でもその瞬間、本人がナイジェル・ルーバック氏に語ったところによれば、「モリモリと食欲が湧いて」きたとか(笑)。



フェラーリ交響楽団」…トッド氏が監督に就任してからのフェラーリはまさにそういう組織へと変わっていきました。それまではエンジン部門とシャシー部門がお互い張り合うようにそれぞれ別個に開発を進め、連携が取れていなかったのをミハエル・シューマッハというソリスト」を中心としたオーケストラに作り上げていった、といったところでしょうか。ちなみにこのフレーズ、トッド氏が監督に就任直後の93年日本GPでのものです。




【関連リンク】
●ジャン・トッド -Wikipedia