▼見られる自分と見られたくない自分 ~わたしとあなた、あなたとわたし:補論(3)



「異文化交流考察」第1考「他者を理解するということ」補論の3回目(ってどこまで補論やるのか)、今回は”見る-見られる”について、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。


1 ”見る-見られる”という「不意打ち」


「見る-見られる」という図式の中で、「他者」を一方的に見て「認識・評価」していた自分自身もまた「他者」から見られていて「認識され、評価され」ていることに気が付いた瞬間、いったん作られていた「他者認識のストーリー」の安定性が激しく揺さぶられる。そのとき、どうやって他者認識のストーリーの再構成を行うのか…ということを今回の考察の中で述べてきたわけですが……この図式で漠然とイメージしていたのはある種の「不意打ち」的なものでした。

この図式で含意されている「不意打ち」とは、もう少し踏み込んで例示してみれば、次のとおりになるでしょうか。

1) 「まさか自分も他者から”見られて”いるとは思いもしなかった…」という他者からの視線そのもの
2) 自分は「こういう人間である」という思いこみに対する他者からの問いかけ
3) 自分を「このように見てほしい」という願望、演出に対する他者からの問いかけ
4) 自分の「見せていなかった」部分に対する他者からの問いかけ、指摘


2 「見られる」ことで問われる自分



またまたトンコさんばかり引き合いに出してしまって、いい加減シバかれるのではないかとは思いますが、今回の記事「補論(3)」での考察…「見られる」ということをもう少し踏み込んで考えてみようと思ったきっかけはトンコさんのこの記事です。彼女曰く…。

ブログの記事は表現・発信だとわきまえているからいいけど、自分のブックマーク一覧は、何の気なしにその元になるような心の働きまで他人に晒しているようで怖くなりました。

100字以内でコメントを付けてweb上のコンテンツをクリップできるSBMの「はてなブックマーク」をパブリックモード(公開)からプライベートモード(自分+承認したidのユーザーのみ閲覧可能)に変えた…ということなのですが、トンコさんは、知り合いに本棚を見られるのはOK(コメント欄参照)、ブログの記事を不特定多数に公開するのもOK、でもはてブパブリックモードでの公開は「精神の一部が裸になっている感じ」がして嫌だという…。

もちろんその区分けがどうなのか、が今回の記事の主題ではなく、トンコさんの上の記事を読んで感じたのは、一言で「見られる」といっても色々な「見られ方」があり、その見られ方によって「自己認識」=「他者認識」のストーリーの揺さぶられ方も変わってくるのではないか…ということでした。ともかく、「見られる自分」のありようを、その「見られる場」をキーにして下の表にまとめてみました。


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<クリックするときれいに表示されます>


3 「問われたくない」自分


上の表では、ネット上の場とトンコさんの記事のコメント欄で出てきた「本棚」を「場の例」として挙げてみましたが、リアルの場についても色々と追加できるかと思います…実際やってみるときりがなさそうですが…。ここで、それぞれの「場」において、不特定多数へ公開するかどうかを分けるのはそういう「場」のもつ性質と「自己イメージの種類」つまりどういう自分をそこで晒しているか…ということによるものと思われます。

また、一般的な傾向としては、「見せてもいい自分」と「見せたくない自分」を分けている場合は、「見られること」そのものが「不意うち」となりうるのに対して、ある程度自己イメージをコントロールし、折り合いを付けた上でオープンにしている場合は「見られる」ことが全く恐くないのか…といえばそうではなく、やはり「こうであろうと思いこんでいた自分」へのネガティブな、あるいは全く違ったイメージを突きつけられることが「不意打ち」、つまり「見られることの怖さ」になると考えられます。

私の場合は、本棚を人に見せるのも平気だし、Y!Bでも「ファン限定記事」を特に作っているわけでもない、mixiはアカウントは持っているけれど招待してくれた友人の記事を読みに行くだけ(あんまり関係ないか)、はてブでもパブリックモードで使っている…のは、ネットの場で活動する上で予めそれぞれの場で「見られる」ことを前提とした上で、「こういう自分なら見せてもいいだろう」と自分の中で折り合いを付け、コントロールされた自分を出していているからかもしれません。

そもそも自分のブログのコンセプト(?)は「乱雑な本棚」ですから、ブクマにしてもリアル本棚にしても隠してしまうわけにはいかない、というところもまぁあったりします。このあたり、皆さんはいかがでしょうか……?


次回は、第2考に進みましょう(やっとかい)。小説家・中国文学者の高橋和巳(1931-1971)のエッセイ集「人間にとって」より「差別について」を紹介しながら、「差別」というネガティブな他者認識の代表とも言えるメンタリティについて考えてみます。