▼被害と加害の複雑な連鎖~高橋和巳「差別について」補論



「異文化交流考察」第二考察、「差別について」。

前回の論考では、「自らが『差別というネガティブな他者認識』にとらわれていないか、どのように判断すればいいのか、あるいはどうすれば巻き込まれないのか、被害と加害のやっかいな連鎖をどのようにすれば断ち切れるのか……。」というところで一旦話を切りました。今回は、その続きと、前回記事にいただいたコメント等から気が付いた点を補足して話を進めていきたいと思います。


1 「どんな努力をしても絶対に覆せない事柄」



どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。
モヒカン宣言「掟」より


この「掟」は、なるほど、自分が「差別というネガティブな他者認識」にとらわれていないかどうかを判断する上でわかりやすい指標たり得る、と思いました。「どんな努力をしても絶対に覆せない事柄」…例えば、その人の属性としての、「出自」に関わる事柄…まさに「人種」だとか「民族」であるとかはたまた「国籍」であるとか…あるいは特定の地域の出身であるとか。

本来その人個別の属性-その人独自の個性や人格、能力を判断するのではなく、ある特定の人種や民族、国籍や出身地などに係る「ネガティブ(かつ往々にして恣意的)なイメージ」で検証可能性や反証可能性を抜きにして一律に判断してしまう…といったところでしょうか。そういう意味では、流行りの(?)「血液型性格判断」などというものも座興の域を越えて行き過ぎると十分「差別」になり得るかもしれません。

ただ、この「掟」で、一点だけ気になるのは…「努力」の部分です。もちろん、「どんな」が「努力」の前に付いているところがこの「掟」のキモの部分であって、それゆえ正当な命題だとは思うのですが、このフレーズの解釈(あるいは逆読み)として、例えば…

じゃあ、××という事柄は「努力」で修正可能なのだから、「差別」には当たらないよな。

としてしまうと、つまり「どんな」の部分をすっ飛ばして「努力」という言葉だけに着目してしまうと話が途端にトリッキーになってしまいます。「努力」というフレーズは、異文化(他者)との間に感じる自己基準との「偏差」を「他者を変えることによってのみ」小さくしようとする際のロジックにもなるのであって、言い換えれば、それこそ自分の考え方や価値観を一方的に押しつけるための最凶ツールにもなり得るからです。

また、「努力」とは気の持ちようや心のあり方だけでの問題なのではなく、いろいろな環境要素にも左右される側面もある、と思います。


2 「ネガティブな他者認識」が差別(意識)に向かうステップ


私の一連の論考のキーとなる概念は、「ネガティブな他者認識」とそれを正当化するために過剰に消費されてしまうリソース、いわば「装われた客観性」ですが、具体的には、無視や攻撃、排除という形で表れてきます。「差別」とは、前回記事の冒頭でも触れたように、ネガティブな他者認識の代表ともいえるメンタリティですが、そういう他者認識の全てが「差別」に結びつくのか…前回記事にいただいた反応を考えると少し概念を拡げすぎた、というかそのあたりを曖昧にしていた感もあります。他者抑圧的に働く精神作用が、具体的に「差別」という形になるには、少なくとももうワン・ステップ間に入るものを確認しておく必要があると感じました。

では、その「ワン・ステップ」とは何か……本来理非曲直は個人あるいは個別の問題であるにも関わらず、差別では往々にしてその個人の属する集団の属性の問題として推し量られてしまうことに着目すれば、そこにはある種の「抽象化」の作用が働くものと思われます。

前回の記事でも触れた、時間や空間の隔たり-直接的な体験を持たない世代に対立感情が継承されることや、「具体的に対立している人たちをメタ的に見る視点」-も「抽象化」の作用の例でしょう。また、対立感情が感情的なフックをトリガーとして言論がカスケード化(下の「参考リンク」参照)していく過程の中で異質の他者のイメージが単純化され、固定化していくことも要素として挙げられます。つまり、対立感情がある種のポピュリズムと化していく中で「差別」へと転化していく図式が考えられます。

具体的なトピックをめぐって対立している間はまだいい、仮に議論の体をなしていなくて互いに面罵し合うような状態であってもそこでの理非曲直は個人あるいは個別の問題だから。しかしその過程の中で異質な他者を単純化したイメージに押しこみ極端に抽象化していくと…そこに「差別」が入り込む隙間がある、と思われます。


3 「差別」からいかにして逃れうるか


最後に、もう一度高橋和巳の小論から牽いてみましょう。


そしてまことに残念なことには、被害と加害の複雑な連鎖を完全にたちきる絶対的療法は今のところはないのである。ただ、差別しあっている者の上に、いつの時代にもほくそ笑んでいる<悪霊>が存在しているということを指摘できるに過ぎない。
(高橋和巳「人間にとって」新潮文庫版:P45)


「被害と加害の複雑な連鎖」…防衛機制の極端な表現としての差別の危うさは、それが他ならぬ加害であることがわかりにいところにあり、そもそも言論それ自体の中に自らを守るためには他者を傷つけざるを得ないという局面が少なからずあることが問題を一層難しくしているように思われます。そして、「差別の原因を究明しよう」という理性的な作用が必ずしも差別を解消する方向にには向かわず、「いわれがあるのだから正当だ」とかえって補強してしまうことにつながることもあり得ます。前回記事の中で、牛男さんのこのコメントはその辺りをまさに言い当てておられると感じました。

差別は他者への恐怖の感情に根ざしている。それが構造化されるときに理性は差別を固定化するために働く場合がある。


再度冒頭の「掟」に話を戻せば、ここで「どんな努力しても覆せない事柄」のフレーズのポイントを、字面のとおり「努力が可能かどうか」と考えると意味を読み誤るのではないか……とも思います。この辺りが非常にトリッキーなのですが、努力が可能な事象を対象にしているかどうかで差別かそうでないかが分かれるのではなく、対象としている事象を「どんな努力をしても覆せない」事柄に転化してしまうメンタリティが差別なのではないか、と現時点では考えています。


【07.03.11補足】
上のパラグラフに少し補足。
「これは努力で変えられるのだから」差別ではない…「これは努力で変えられない部分だから」差別とする区分けの仕方はトリッキーだ…ということです。異質な他者を単純化したイメージに押しこみ極端に抽象化していき、修正不可能かつア・プリオリな認識の中に落としこんでおきながら、「努力」によって特定の考え方を不当に強いる、また「努力で変えられることなのに努力していない」と相手を非難し、ゆえに「これはいわれのない差別ではない」というする巧妙な形を取る場合もあります。


「被害と加害の複雑な連鎖」を断ち切ること…それは、いかにして「他者への恐怖」を乗り越えるのか、いかにして他者を理解し、受け入れるのか、ということと密接に関連しています。この理解と受容のあり方を、私の「異文化交流考察」シリーズの中心テーマに据えて今後も考察していきたい、と思っています。