▼ノートに代えて~高橋和巳「差別について」補論(2)

【07.03.16 --20:56--】

第二考察「差別について」

これまでの2回の記事の中で、コメントをいただいたり、また、他の関連記事を読んだりする中で、「ネガティブな他者認識」の構造と差別との関わりを、もう少し整理し確認しておかなければいけないな…と感じています。

「ネガティブな他者認識」の代表的な存在とも言える「差別」ですが、具体的な言説を色分けする区分や基準を考えるのではなく、差別を導き出す構造を考えていきたい、というのが私のスタンスです。しかしながら、差別には「心の防衛機制」としての側面も強いだけに、「差別」として捉える言説の対象が拡散したり、差別の構造を考えることが逆に他者の言説を封じてしまう凶器にもなりうるのでは…という危惧も同時に感じます。

今までは、ある程度、自分の中で自分なりに考えをまとめてから記事をupしていましたが…そうすると非常に時間がかかってしまいます。ちょっと今回は、その時々の考えをメモする場としてこの記事を上げたいと思います。

適宜加筆や修正を加えていって、「5000字制限」に引っかかるかある程度のまとまりが出来たら次の記事を上げていきます。なお、思考の痕跡を消してしまうような削除はやらないつもり(修正も極力見え消しで…)です。

まずは頭出しまで。



【07.03.19】



「異文化を認めよう」というフレーズをこういう「異質の他者に対する言論封じのツール」に使われるのは正直切なくなるというかやりきれない気持ちがします。言論そのものの「正しさ」とは別にお互いにとって「凶器となってしまう」と思います。いや、私の物言いが些かナイーブに過ぎるのは承知の上なのですが…。

「切なくなる」のは、「異文化を認めろ」と言う「無断リンク禁止側」と「無断リンク禁止はイクナイ」と主張する方両方に対してであって、こうなるともうお互い「殲滅戦」にしかならない。もはや中核派革マル派というかシーア派スンニ派というか…。で、結局数や力において「敗れた側」がありていに言えば「差別の対象となる」と。

ただ具体的にこの「無断リンク禁止」のトピックで「異文化を認める」とはどういうことか…「無断リンク禁止はイクナイ」側の方がそういうサイトに対して「儀礼的無関心」でいることなのか…それはそれで違うような気がします。もっとややこしいのは「無断リンク禁止」側が「異文化を認める」とは……?

実際「無断リンク禁止」派も、それはおかしいとする方もそれぞれの側に属する人々の全てが単一の価値観というわけではなく、それぞれの理由とロジックがあるのであって、お互いそこら辺りを見つめ合うことが必要なのではないか、と思います。お互いに「オレの考え方こそが守られるべきコンプライアンスだ」と言い合ったとして、結局はそこから外れていく人がどんどん増えるだけのことではないか、と。



例えばこういうエントリー。今もう一度確認してみたらプライベートモードになっているのではてなブックマークの方のリンクを貼りましたが…その後このサイト主さんは「無断リンク禁止」の看板を下ろした、といいます。それは「回りが次第に見えてきて別に無断リンクが恐くなくなったから」だそうです。

私自身は「無断リンク禁止」とか言われると…「まーたアホなこと言うてんなぁ…」とは思うのですが、だからといってその思いをまともにぶつけても相手はまぁ受け入れないだろうな…というのは関連エントリーを色々見て感じています。「どういう考え方が正しいのか」と考察することと、その考え方を「啓蒙」することとはそれぞれ方法論が違うから、と思います。



【07.03.27】



ここ数日間、はてブに「差別」関係の記事をせっせとブクマしていますが……タグ[*_S:差別]と、相当数は[あとで読む]タグを付けて整理待ちの状態になっています。

3月に入ってから、はてなテキストサイトの界隈で「差別」をテーマにした議論がいくつかあり、どれもこれも「難易度のかなり高い」問題です。本来なら自分が今「異文化交流考察」の一環として取り組んでいるテーマなだけに、どんどん言及して考察を進めていくいい機会のはずなのですが、逆に「はまり込んでしまって動けない」状態に陥っています。私が今固まってしまっているのは……箇条書きにすればこういったところです。



1) 異質な他者に出会ったときの「ネガティブな他者認識」の構造を「差別」が形成されていく過程と関連づけていこうとしているが、「ネガティブな他者認識」と「差別」をリンクする仕組みを未だ十分に書き切れていないこと。「差別」へのカウンター言説まで「ネガティブな他者認識」の構造の中に取り込まれてしまう危うさを感じる。→この考察自体が「言論封殺ツール」になりかねない。

2) この考察の目的は、個別具体の言説が「差別」に該当するか否かの基準を設定して色分けすることではなく、「ネガティブな他者認識」が「異質な他者」を排除してしまう構造と「差別」が形成されていく構造との共通点を描き出すことなのだが、「色分けをしない」ことにこだわるあまり、逆に個別具体の言説へ言及できなくなってしまっている。→「差別というネガティブな心性」から抜け出す処方箋にはなり得ない。

3) 上記2つに共通する点として……相対主義のジレンマ」に陥っているのではないか。議論を過度にフラットに考えているのではないか。「定言命題」をおのおの限定的な立脚点を持つに過ぎない「仮言命題」へと解体し続けた結果、自らの考察の立脚点までが曖昧になっているのではないか。「定言命題」とまではいかないにしても、仮定的にせよ命題をある程度公定化しておいて考察を進めていく必要があるのではないか……。相対主義は、各命題の「正しさ」が拠って立つそれぞれの「準拠点」を認識し、注意を喚起するための「論考の補助手段」なのであって、そこから自らはいかなる準拠点をどういう条件のもと「選び取るのか」という作業が必要になる。

4) 上記3点とは別に、意識の問題と行動・言動の問題を切り分けて考えなければいけないのではないか。



さて、今のアポリアから抜け出して、論考に一区切りを付けるにはどうすればいいのか……一つは論考の目的を「構造を描き出すこと」だけに絞り、抜け出す方法の考察については、当初に予定していた基本5考察が終わってから次のテーマとするか…。もう一つは、最初から、第1考察「ネガティブな他者認識」の構造から整理し直すか……。前者の方がおそらく簡単なのだとは思いますが、それは問題の先送りに過ぎないとも言えます。はてな界隈の論考を見る中で、何点か気が付いたこともあります。ですから、時間が多少かかっても再度論点を整理し直し、その上で気になった他の論考にも言及できれば、と考えています。投げ急がず、ロングスパンで考察していきたい、というのがこのシリーズの出発点だったはずです。

まずは、第1論考「わたしとあなた、あなたとわたし~「他者」を理解するということ」で描いた図式と、高橋和巳「差別について」(エッセイ集「人間にとって」)での論考を今一度関連づけて整理し直すところから始めたいと思います。

ここで、次の新しい記事に移りましょう。