▼「ネガティブな他者認識」と「差別」の構造~高橋和巳「差別について」補論(4)

3 「ネガティブな他者認識」と「差別」



上の記事でも述べたとおり、「ネガティブな他者認識」の全てが即座に「差別」となるか…といえば必ずしもそうではなく、その間にはいくつかのステップが介在します。その図式を改めて箇条書きで整理すると、以下のとおりになるでしょう。

【2-1抽象化・単純化・構造化-「差別(意識)」の形成・確立】←偏見/差別(意識)への転化

<空間的な広がり>
12)-1感情をフックとした【1-1】7)【1-2】11)のカスケーディング。ポピュリスティックな共有化
<時間的な広がり>
12)-2【1-1】7)【1-2】11)の世代的継承(具体的な体験を持たない)

13)具体的な対立点、争点の抽象化、単純化。→「ストーリー」の抽象化・単純化
14)「ネガティブな他者認識」の→「差別(意識)」の形成/検証可能性の欠落

【2-2「見られる」ことによるフィードバック】←差別(意識)への対抗言論
<15)他者からの評価「ストーリー再構成への揺さぶり」:「見られる」>
<16)自己基準・他者認識への疑義>
<17)【1-1】2)~7)へ戻りストーリーの再構成/再帰的な強化→「差別(意識)」の確立>

18)個々の「異質な他者」を14)17)を根拠として認識/評価

高橋和巳の論考では、対立する相手方への嫌悪感や敵意がどのように差別となっていくかについてはさほど明確には述べられてはいません。「力において敗け、数において劣勢の位置に立った方が当然賤民視される」(新潮文庫版P40)と触れられてはいますが、この部分は、上の図式の中では12)の前段階に位置すると考えられるでしょう。

ただ、高橋和巳の論考のポイントは、「自分たちが弾圧されるのは、やつら、あの過激派集団がいるせいだという風に横にずれていった」…私自身の言葉でいえば、再帰的な防衛機制としての「自他の関係性のストーリー構築」を指摘した部分だと思います。再帰的な防衛機制としての「ネガティブな他者認識」が抽象化・単純化され、時には対抗言論のフィードバックを受ける中で再帰的にリライトをくり返し、個別の固定観念から社会的に構造化された「差別(意識)」へと転化していく過程のコアとなる部分が「自他の関係性のストーリー構築」(と根拠付けのリソース動員)の図式だと考えられるからです。

「ネガティブな他者認識」が「差別」へと転化していく過程については、これまでの記事のまとめに加えて、以下の点を補足しておきたいと思います。

1)個別の嫌悪感が<空間的><時間的>に広がる中で抽象化・単純化され「異質な他者」を修正不可能なイメージで認識する、という差別(意識)形成の過程は、言い換えれば「個」への嫌悪感を「集」としての属性への嫌悪感にオーバーライトしていく過程でもある。
2)また、個対個の対立構造の中で、自分にとって異質な他者への嫌悪感を既にある差別意識の構造に無自覚に重ねてしまうケースもある(現実の「差別(意識)」の多くはこのパターンか)。

4 「理性」と「正しさ」の陥穽


そこで、と改めてここでツッコミが入るかもしれません。結局何が「差別」(的な言説)となるのか、と。

その言説が、「個」対「個」の対立構造にとどまっていて、「集」としてのネガティブな属性イメージに拠っているのでなければそれは「差別」ではないのだろうと思います。しかし、個対個の線的対立構造における具体的な対立点や争点が抽象化・単純化されて面としての広がりを持ち、集合的な属性イメージに回収されていくと…検証可能性を欠いた修正不可能な他者認識を強化してしまう「差別」へと転化していくと考えます。

ただ、この一連の論考での問題意識は、ある言説が差別であるのか、そうではないのか、差別ならアウトで差別でなければセーフ、という色分けではありません。異質な他者へのネガティブな言説が、再帰的な自己防衛機制として作用し、ある種アンフェアなストーリーによって根拠づけられる中で、他者認識への検証可能性が失われ、他者抑圧的な言説と化すそのプロセスにこそ問題点の所在があります。そして「差別」はそういうプロセスの激しい顕示であると。

そして繰り返しになりますが、留意すべきことは、「ネガティブな他者認識」が再帰的な防衛機制であるが故に、客観性や論理性や理性、さらには中立性といった概念がネガティブさを解体する方向ではなくむしろ強化する方向に作用することもあり得るという点です。


だとしても……こういうツッコミも入るかもしれません。そもそも…「ネガティブ」とはどういうことなのか、何に対して「ネガティブ」なのか、とも。「ネガティブな他者認識」が他者に対し否定的に作用するメンタリティ一般を指すのであれば、誹謗や中傷、侮蔑や揶揄と、「正当な批判」とを区別しているのか、それは「正しい対抗言論」まで封じてしまうことにもならないか、とも問うことが可能かもしれません。

ならば、私はあえてこう言うことにしましょう。そう、「正しさ」の主張から始まる「差別」というのもあり得る、と。私は、次の3つをさしあたっては分けておきたいと考えます。

*ある命題が正しいか否かという問題
*ある命題の真偽に拠って行われた言説が正当であるか否かという問題
*ある命題の真偽に拠って言説を行った「他者」への認識が正当であるか否かという問題

なぜなら、この一連の論考で問題としているのは、まずは「ネガティブな他者認識」に係る検証可能性の欠如が他者抑圧的な言説につながっていく危険性であるから。言い換えれば、「巧妙に防御された非寛容」に対する批判的検証がこの論考での主要なテーマであるから。でも、この論考が、「非寛容に対する過度の寛容の強制」にも落ち込まないように留意していきたいと思っています。

それから最後にもう一つだけ。

私は「差別」をするような人間じゃない、という言説は自己に対する検証可能性をあまりにも欠いているとは思うけれども、かといって、「差別」のどこが悪い、悪い「差別」もあればよい(あるいはやむを得ない)「差別」だってあるじゃないか、と公言してしまうのも近代以降の市民社会に生きる者としては著しく思慮に欠ける言説として扱われてもやむなし、と考えます。