▼「差別」概念という否定できない正義?~「差別について」補論(5)

*「差別」概念という否定できない正義……を振り回すのはよくない。
*自己に批判的な意見に「差別」というレッテル……を貼って回るのはよくない。


「差別」に関する議論、あるいは差別的な言説に対する対抗言論の中で、上に挙げたフレーズを見かけることがあります。もちろん、この命題そのものは間違いではありません。フラットで対等な議論と対話をしようとするのであるなら、「差別」に敏感であるあまりに「とにかく差別だからいけないんだ」と対象となる言説をよく検証もせずに決めつけ、やたらに「差別者」というレッテル貼りをしてしまうのはよくない、と私自身も考えます。それは「差別」あるいは「差別の対象となる事柄」について語ることそれ自体をタブー化し、結果として差別を温存してしまうことにつながりかねないからです。

そして「○○は差別主義者だから×××なのだ」というそれこそ「ネガティブな他者認識」が「差別の連鎖」を産むことになる……確かにそう思います。



しかしながら……。

これらのフレーズを目にすると、私の頭の中で突然ATS(自動列車停止装置)の警告ベルがジリリリリ……と鳴り出すことがあります。すかさず確認ボタンを押してみると、ベルの音はキンコンキンコンキンコンキンコン……というチャイムに変わり、ふと前を見ると次の駅の手前にある場内信号機はやっぱりY現示(黄色信号)になっている。間違いない、「次駅は停止」。ホームの先にある出発信号機はR現示(赤色信号)になっているはず。

繰り返しになりますが、冒頭に挙げた二つの命題そのものは間違いではありません。ただし、これらの言説が正当であるのは例えば、「フラットで対等な議論がしたい」、あるいは「異質な他者をできるかぎり理解したい」場合なのであって、ただ相手の言説を封じたいためにある種の定言命題的に使うのなら「差別という否定できない正義」を振り回したり、「差別者というレッテルを貼る」のと同じことになってしまいます。


いや、それは「差別を指摘する側」へあまりにも甘い言説ではないのか、というツッコミが入るかもしれません。確かにそれはもっともな話かもしれませんが、以下のように考えてもいいのではないでしょうか……。

「差別をしてはいけない」とは、対等でフラットな個人によって構成される近代市民社会の前提となる原理として概ね共有されている命題なのであって、それゆえ自らの言説が「差別的」であるとされることは事実として大きなダメージとなり得ます。ですから、「自分は差別をするような人間である」とわざわざ認めたり「差別主義者」と目されることを甘んじて受け入れるような人はあまり(というかほとんど)いないでしょう。一種の「芸」としてわざとやるような人はいるかもしれませんが。

そうなると、自らの言説(あるいは自分が支持したい言説)が「差別的ではないか」と目された場合、つまり自らの「ネガティブな他者認識」がトリッキーなものとして「見られた」場合、かかる他者認識を自ら問う方向にではなく、「相手の考え方や言説・行動に……の問題があるから自分はこう考えるのだ」という方向に往々にして向かいがちです。つまり「自他の関係性のストーリー」を再帰的に強化してしまおうとする作用が働くわけです。もっと平たく言えば、「私が差別的なわけではない、問題があるのは向こうだ」と。また、そういう「差別的言辞」への対抗言論は、「激しい抗議」という形を取ることが多く、その際に使われている言葉の熱量を感じただけで身構えてしまい、とにかく自己防衛的に「差別はいけない、という否定できない正義を振り回している」と感じてしまう側面もあるでしょう。

かかる図式の中では、「『差別という否定しがたい正義』を振り回す他者」あるいは「『差別というレッテルを貼って回る』他者」というイメージこそがそういう自らの他者認識を再帰的に強化するための格好のリソースとして消費され、差別の構造を形作り、時には強化・温存してしまうこともあるのは差別への対抗言論、反差別への言説に対するこういったイメージなのです。



もう一度話を戻しますが……「反差別に係る行き過ぎた言説」というものがないわけではもちろんありません。でも「差別的な言説」が問題になったときに、まず検討されるべきことは、例えば、以下のような点であって、「差別だ」「いや差別ではない」「レッテルを貼るな」と言説を応酬し合うことではないのではないか、と思います。


<言説そのものの認定について>
・誰の
・どういう言説の、どの部分が
・どのように問題とされているのか
・どのように受け取られているのか
・言説はどのような文脈の中で発せられたものであるのか
<言説の意味について>
・問題となっている言説が「異質な他者」をことさらに排除・攻撃していないか
・論拠に恣意的な事実認定(ここらあたりは第3論考「ヘイトスピーチ」で詳しく)が含まれていないか
・「個」の言説や行動を判断する際に「集」としての属性を必要以上に被せていないか


「異文化を理解する」「異質な他者を理解する」あるいは「差別(意識)を解消していく」とは、こういう作業を繰り返す中で自己防衛的かつ再帰的に構成/再構成されがちな自らの他者認識を問い直し続ける、ということを通じて実現されていくものであって、そのためには、他者を知ろうとすること、そして他者に対する検証可能性を常に残し続けていくことが必要であると思います……とはいえ、こういう作業は何分心理的にはコストや時間のかかることでもあり、どうしても「わかりやすいストーリー」に飛びついてしまうのもまた事実かもしれません。ただ、この部分を疎かにしてしまうと、自分では「客観的」なつもりでいても、知らず知らずのうちに他者抑圧的な言説にはまり込むことになってしまうのも確かです。



3月に職業差別に関する言説をきっかけとしてはてな界隈で起こった議論・論争のまとめ記事。「差別とは何か」「なぜ差別がいけないのか」を関連記事を牽きながら繰り返し説明されています。ブログ記事の中で、「差別」に関する最も詳細かつ優れた論考の一つ。その中でも、「差別とは何か」について、その構造を明示しつつ差別的言説のトリッキーさも併せて明らかにした以下の部分を引用しておきたいと思います(太字はo_keke_nigelによる)。

更に有体に言います。あくまで例示ですけれども。「淫売」と言うことも「淫乱」と言うことも、別個に言うなら少なくとも「差別発言」「ヘイトスピーチ」には該当しない。直接に言ったなら当事者ならびにその関係者にはぶん殴られることと思いますが。

しかしながら。「淫売は淫乱」「淫売だから淫乱」と言ってしまったなら、それは明確な差別発言でありヘイトスピーチです。
「is」が「だから」が問題であるのです。

問題は、ないし問題の本質は「売春婦」「部落」「黒人」あるいは「朝鮮人」と言い募ることにもかかる語句の使用にもない。

「売春婦は○○」「売春婦だから○○」「被差別部落出身者は○○」「被差別部落出身者だから○○」「黒人は○○」「黒人だから○○」「朝鮮人は○○」「朝鮮人だから○○」という定型的な発想と意識認識と価値観、その表出としての言い種にこそ、「差別」という問題が所在する。この場合○○という任意の代入項もまた直接の問題ではない。「is」「だから」という単線的な発想意識認識価値観と命題化、そしてその表出こそが問題であり、「差別」となる。

差別とは社会構造/社会的文脈という事実性に依拠し依存し時にその威を借りた、個人的な感情に基づく、現実の人間に対する毀損です。ゆえにinumashさんや、そしてyukiさんが原理的な筋論をもってそれを撃つことは当然。私とて「近代社会の原理」を持ち出す。相手のあってのことです、万事は。



例えばあからさまな人種差別などの差別的言説は、差別であると非常にわかりやすいのですが、上の二つのエントリーでは一見しただけではそうとは分からない「非寛容な言説」の洗練されたバリエーションのサンプルが示されています。この手の言説がトリッキーだなと思うのは、自らのネガティブな他者認識のコアな部分を巧みに隠しながら対抗言論を封じ込めようとするところでしょうか。

「女性」「外国人」「生活保護が必要な貧しい人」の「全体のイメージが悪くなるんじゃないかと心配している」というお為ごかしの説教じみた発言をする人間は、学習した差別野郎か、自分の差別感情を客観視できない馬鹿である。なんとなれば、差別対象に五人組的連帯責任を負わせようとしているからだ。問題があると思うなら「一部の人」を糺せばよかろう。理非曲直は個人の問題だ。こういう発言に一切譲歩してはいけないと私は思っている。これは形を変えたヘイトスピーチにほかならない。
(「断片部 - ユウガタ - 『もちろん差別はよくないと思いますが、一部の人の振る舞いのせいで』」)
(太字はo_keke_nigelによる)