▼「倫理」に行き当たる「差別」の概念~「差別について」補論(6)

「差別をしてはいけないのは何故か」というフレーズに限ったことではないのですが、「~してはいけないのは何故か」には次の2つの命題が含まれています。

1) 「~してはいけない」とされるのは何故か?
2) 「~してはいけない」に従う(従わなければならない)のは何故か?

簡単に言ってしまえば、1)はいわゆる事実としての問題であり、2)はそれぞれの個人の選択の問題、行動原理という意味での倫理に係る問題です。

「差別をしてはいけないのは何故か?」-それがフラットで対等な個人によって構成される近代市民社会の原理であるから……という理由付けは1)に属します。私がこの一連の論考でキーの概念としている「ネガティブな他者認識」の図式の批判的考察……これも1)に属する話になるでしょう。それに対して2)は、「差別をしてはいけない」という命題に従うかどうかは行動原理という意味での倫理に関わることであって、1)に関する諸々の理由付けは2)の理由付けとは別のカテゴリーに属します。「法による禁止」も往々にして間違われやすい(物理的な強制力を持つ故に)のですが1)に属するものと私は考えます。「法による禁止」に従うかどうか……が2)の領域の話になります。

1)と2)の関係をニュアンス的に思いっきり平たく言い換えれば……「ネタ」と「メタ」は1)で、「ベタ」が2)ということになるでしょうか。


ですから、現に差別意識を持っている人、あるいは激しい「ネガティブな他者認識」を持っている人に対して1)に関わる理由付けで「差別はいけない」「異質であるからと言って他者を排除してはいけない」といくら説明しても、なかなか通じないのは結局のところ「……してはいけない」ことに従うかどうかは倫理に関わる話に行き着くからです。倫理に関する命題は、それ自体無前提なものであるか、あるいはまた別の倫理によってでしか導かれません。また、「倫理を振り回すな」というフレーズがあるくらいですから、自らの倫理を表明することは、別の倫理を持つ人にとってはそれだけで(好むと好まざるにかかわらず)攻撃的に作用してしまうこともあり得ます。


それはともかくとして……。

前回の記事でも触れた「はてな界隈での議論」を追っている中でこういう問いを見つけました。こういうのを見るにつけ、やはり差別の問題は詰まるところ「倫理」の問題に行き着くのだと改めて思います。どこで見つけたかは敢えて書きません。若干標記は改めています。


もし、自分の妻や子供が「セックスワーカーになりたい」と言えばどう答えるか?
私は反対する。それがセックスワーカーへの差別だということは分かっているが、それが妻や子への愛情なのだ。
だからセックスワーカーへの差別はなくならないでほしいと思っている。あなたはどう思うか?


この問いが難易度星5つクラスの「ヘイトスピーチ」にほかならないことは言うまでもないのですが……私のこの記事にたどり着かれて読まれた方は、どこがどのように「おかしい」のか、お分かりになるでしょうか……。


いずれにしても、私自身は「差別をするような人」がいるのではなく、「差別をした人」がいるのだ、と考えています。「ネガティブな他者認識」のモデルを「差別の起こる構造」に当てはめて考察してきたのも、「差別主義者」という特別な人たちを設定し、ラベリングして「安心」してしまうのではなく、誰しもが異質な他者を必要以上に恐れ、嫌悪し、排除し、その根拠付けのストーリーにとらわれてしまう心理的モメントを持っている、当然私自身も例外じゃない、だから知らず知らずのうちに「引っ張って行かれないように」するにはどうすればいいのか……と考えるからです。「差別主義者」をことさらにあぶり出し、ことさらにその危険性を強調するのも、また形を変えた「切断操作だと思うからです。決して「差別の構造」は私自身とも無縁ではない。

でも、上のような言説を見るに付け、一種暗澹とした気持ちになってしまいます。こういうことをいくら個人のブログとはいえ、半ば公共の空間で言ってしまうような人に対して……いや、セックスワーカーといっても多種多様な人がいるのであって……決してあなたが思っているような「性意識の乱れたふしだらな人たち」じゃない、と私がかつて仕事上で縁があって参加したことのある「セックスワーカーになろう」というHIV啓発プログラムの一環としてのワークショップでの体験をいくら語ってみても、おそらくは通じないでしょう。差別につながる恐れや嫌悪感はその対象について「よく知らない(知ろうともしない)」ことから来るのは確かですが、だからといって「正しい(と思われる)知識」を対置すれば直ちにそういうネガティブな意識が解消される、というわけではありません。いったん自己防衛的/再帰的に形成されてしまったネガティブな意識はそういう対置されたインフォメーションをも自らの意識の中に取り込んで再帰的にリライトしてしまうであろうし、それこそ「ネガティブな意識」を変えようとすることはまさに倫理的な選択の問題だから。

それに、私自身妻や子(当然息子も含む)から「セックスワーカーになりたい」と言われたとして、おいそれと諸手を挙げて賛成する、というわけにはいきません。リスクの大きい職業であることは紛れもない事実だからです。おそらくこの言説に正面から答えようとすれば、私の胸からも血が噴き出してくるでしょう。おそらく無傷ではあり得ない。ただ……だからといって彼の人たちを「セックスワーカー」だという属性だけで無前提に十把ひとからげにまとめて軽蔑し侮蔑し、差別してもいいのか、そして、私の家族は私の「所有物」ではなく、どんなことをしようともかけがえのない私の妻であり子であり、共に生きる存在である、とだけはここで言っておきたいと思います。


2月から、ここまで「補論」も含めて全部で7回異文化交流考察の一環として第2考察「差別」についての記事を書いてきました。

始めたときはここまで引っ張ってしまうとは思いもしませんでしたが、正直ここまで書いてみてもまだ割り切れないものがかなり残っています。それは「差別」の問題を考えるとき、「なら、その構造から抜け出るにはどうすればいいのか」という問いが分かちがたく伴うテーマだから、そしてそれはとりもなおさず「異質な他者を受け入れる」とはどういうことなのかを問うことでもあるからだと思います。

今、私がここでやっている作業は「ネガティブな他者認識の危うさ」を書き出すことですが……それはある種の「イデオロギー暴露」(丸山眞男)的なものに過ぎないのであって、その次に「じゃあ異質な他者を理解し、受け入れ、共存する」とは……についての考察がその後で伴わなければなりません。ここまで、かなり時間を掛けてしまっていますがどういうアプローチで切り込んでいくか、を同時に考えながら、次の第3考察「ヘイトスピーチ」に進む予定です。

これからしばらくの間は……いつもの「オタッキーブロガー」に戻って、すっかり溜まってしまったF1や鉄道ネタに取りかかろうと思っています。