▼異論を「批判すること」と理解すること~第二論考「差別について」を終えて

もちろんこれはあくまで政治的なというか差別主義者やどうかしている人を大人しくさせて快適な社会を維持するための話であって、その上で議論できそうな相手と議論がなされるのが好ましいのは言うまでもない。というのも、反差別団体だろうとなんだろうと、批判にさらされずに外部に対して特権的な立場の集団や言説は、腐るからだ。むしろ、この手の問題はガンガン議論されていい。

しかしそうする前に、またその最中やその後にも、自分の深いところに目を向けることも必要だ。偏見から自由な人間などいないし、差別感情がなくせるとか、俺は持っていないという考えでは、あまり意味のある議論は出来ない。それに関して開き直るのもたぶん意味がない。
断片部 -ユウガタ-「なぜわたしはこう感じ、思うのか」(Tezさん)


先日の私の記事「▼「差別」概念という否定できない正義?~「差別について」補論(5) 」の中で、「参考にさせていただいた論考」として、Tezさんの記事に言及させていただいたのですが、その私の記事への反応として、「批判することの意味とあり方」について述べられています。

「反差別団体だろうとなんだろうと、批判にさらされずに外部に対して特権的な立場の集団や言説は、腐るからだ。むしろ、この手の問題はガンガン議論されていい。」とあるように、「対抗言論の可能性」は基本的にオープンであるべき、と私も考えます。例えば、それがいわゆる「右から」であろうと、「左から」であろうとはたまた「僕は中道」からであろうと。でも、とTezさんが言われるのは「そうする前に、またその最中やその後にも、自分の深いところに目を向けることも必要だ。」、この部分に深く同意します。特定の言説に対する自らの共感や違和感、あるいはどちらにも与しない割り切れぬ感覚等々、それらの思いはどこから来て、そしてどこに向かおうとするのか……「議論」や「対話」に意味があるのだとすれば、自分自身の中に他者の言論を一旦住まわせ、そして通過させてみてその後に残るものは何かを見極める、ということなのかな、と思います。


Tezさんのこの記事に対応する言説として、私が思い出すのは例えばこういった論考です。

批判の有用性は、批判者側が「自分の主張の内容と形態」を自己分析して個別に立証することであって、批判対象の非道ぶりや愚かさを盾にして言いつくろうものではない。Web環境や他の批判者の存在を指差して言いわけするものでもない。批判対象をよく観察し、状況をよくかんがみ、どうしても相手に届ける必要があると判断した内容を適切な文章と方法とで発信した、と【自分で】立証すべきことなのだ。
批判に冷静に対応できない、議論に未熟な、議論を望んですらいないブロガーを批判・追批判・集団批判するならば、その行為の正当性は厳しく問われるべきだ。誰によって? もちろん自分自身によってだ。他人は批判できるが自分には問えない者、自分自身にコミットできない者は、峻酷な思想の鎖に繋がれたまま生きてゆけばいい。それもひとつの自由だ。
1day,1page - 微笑むか、吼えるか、選べ。(わたりとりさん)

私を「異文化理解」の論考にお誘い下さったわたりとりさんが昨年の9月に書かれた記事ですが……「議論」や「対話」で、あるいは「議論」ではなくても異論のぶつかり合いが何故往々にしてある種の「自尊心バトル」や「解釈ゲーム」の争いに落ち込んでしまうのか。

それはわたりとりさんの言われるように「批判対象をよく観察し、状況をよくかんがみ、どうしても相手に届ける必要があると判断した内容を適切な文章と方法とで発信した、と【自分で】立証すべき」、つまり「何のために異論を表明するのか」を考える前に、その場その場の言論で「ポイントを稼ごうとする」からだ……と「自戒を込めて」そう思う、とここで書くのは私自身確かに簡単なのですが、実際に自分の中に他者の異論を一旦取り込んでみて反芻してみる、という作業はなかなか辛く切ないものがあります。というのも、そこでは文字どおり自分自身が厳しく問われることになるから、場合によっては自分が反論したい、と思う異論自体に自分自身が取り込まれていることに気が付くこともあるからです。しかし、そういう状態を見かけの上で「乗り越える」のでも「折り合いをつける」のでもなく、ましてや「人それぞれ」と見かけの上では相対主義に思える放置(こういう言説では枕詞に「人それぞれ」が使われるけれども本当は「人それぞれ」と思ってはいない)に落ち込むことでもなく、どういう言説を紡ぎだせるのかを自らに問い続けていかなければならない、と考えています。


だから、反ユダヤ主義についてのいかなる研究でも、その出発点は「なんであの人たちはこの明らかに非合理的な考えにとりつかれてるんだろうか」というものではなく、「なんで俺は反ユダヤ主義にとりつかれてるんだろうか。なにがそれをもっともらしく感じさせるんだろうか」というものであるべきだろうと思う。自らにこう問いかければ、少なくとも自分の中にある差別の合理化を見つけられるだろうし、その下に根を張るものをも見つけられるかもしれない。
(Anti-Semitism in Britain - Essay by George Orwell - Charles’ George Orwell Links)
断片部 -ユウガタ-「なぜわたしはこう感じ、思うのか」より

私自身が、差別の構造を「ネガティブな他者認識」のモデルから説明しようとしたのも「差別主義者」を切り出して…というよりは、何と言うことのないコミュニケーションのギャップが知らず知らずのうちに他者抑圧的な言動に繋がっていくのではないか、無自覚に既存の差別的な言説の構造に他者評価を乗せてしまうのではないか……というところからですが、Tezさんが牽いたジョージ・オーウェルの「『なんであの人たちはこの明らかに非合理的な考えにとりつかれてるんだろうか』というものではなく、『なんで俺は反ユダヤ主義にとりつかれてるんだろうか。なにがそれをもっともらしく感じさせるんだろうか』というものであるべきだろうと思う。」という指摘はとりわけ重要だと思われます。自分自身の問題として「なにがそれをもっともらしく感じさせるんだろうか」と自らに問うことこそが「異質な他者を理解する」第一歩であり、「わかりやすいストーリー」に引きずられようとする自分にブレーキをかけることになるからです。


思うところはなし得よう。しかし思うことはなし得ない。だから、理性的であるためには不合理な感情を直視する必要がある。それだけでもだいぶ違う行動が可能になるだろう。自分と*3語ることなしには、他者との対話が実り多いものになることはあるまい。自分の心に正直になるのは、思ったことを全部言うことでも、行動に移すことでもない。

*3:「自分を」じゃねえぞ!
断片部 -ユウガタ-「なぜわたしはこう感じ、思うのか」

「自分を」ではなく「自分と」語ること…助詞が一つ違うだけでその意味するところは大きく違う。「他者を批判する自分」を語るのではなく、「他者を批判する自分」と語り、その自分自身に問いかける……答えるのではなく問おうとすること……だから時々は自分の中に大きく口を開いている闇を見てしまって立ちすくむことも正直言ってあります。


これからも私は「とぼとぼ」と歩いてみようと思います。時には何も書けずに立ち止まり、あるいは同じところをぐるぐる回っていることもあるかもしれません。でもそのあたりは……私の紡ぎ出す言説を読み、そして向き合ってくださるであろう方々の優しくも厳しいツッコミビリティに委ねましょう。

<追記>
当記事から、わたりとりさんとTezさんにTBを飛ばしたのですが…ヤフーの仕様なのか、「トラックバック先」にTezさんの記事名が表示されていません。先方の記事を見たところでは、私の記事名が表示されていましたが……はてなとY!Bと相性が悪いのかな(?)。