▲「マラネロの仕事人」チェザーレ・フィオリオ

今回の「古館語録」は……例によってまた間が空いてしまいましたが……1989~91年シーズン途中までフェラーリの監督を務めたチェザーレ・フィオリオ氏です。

フィオリオ氏は、1939年北イタリアのトリノ生まれ。トリノと言えば……コアなモータースポーツファンにとっては何と言ってもランチアの本社があるかつての「ラリー界の聖地」。F1ファンには「いつもグラサンを掛けてた怪しげなフェラーリの監督」というイメージが強いと思いますが……60年代にはランチアのツーリングカードライバーとして活躍していたフィオリオ氏を有名にしたのは88年シーズンまで務めたWRCランチア・チームの監督としての強烈なイメージでしょう。

ちなみに、氏の父親はランチアの社員、長男アレックス(1965年生まれ:1987年WRC初代グループNチャンピオン)もランチアのワークスチームやサテライトのジョリークラブ、アストラで活躍したラリースト……と親子3代にわたってランチアに尽くした「ランチア・ファミリー」。ついでながら67年生まれの長女ジョルジアはサンレモ音楽祭にも出場した歌手で、後に写真家へと転身、日本でも写真展が時折開催されているようです。


(1) マラネロの仕事人

(2) 跳ね馬の調教師


もうそのまんま(笑)。いつも白い長袖のチームシャツに黒のグラサン、モジャモジャ頭にインターコムを付けていつも何やら指示しているような姿はまさに「チームボス」のヲーラに満ちた感がありました。いかにもイタリアン・マフィアっぽい一癖も二癖もありそうな雰囲気、ツンデレのロンや偏屈な技術屋さんのジョン・バーナードにとっては最高にうっとおしかったやろなぁ……。

(3) シーザー・フィオリオ


これもいかにも、といった感じ。そういえばファーストネームの”Cesare”は「シーザー」のイタリア語標記。こんな雰囲気の人に「お前は最高」とか何度もささやかれたらそりゃあマンチャンはその気になるでしょうね(笑)。

(4) チェーザレ・フィオリオ


呼び間違いだったのか何なのか…フジのF1実況で標記は「チェザーレ・フィオリオ」だったのですが、たまにフルタチさんこう呼ぶことがありました。媒体によって標記も「フィオリオ」(レーシングオン誌)だったり「フィオーリオ」(オートスポーツ誌)だったり……まぁどっちでもいいのかも(爆)。


いかにも「やり手」の雰囲気満点だったフィオリオ氏、ランチアフェラーリの監督時代、その辣腕ぶりを実証するエピソードが多く残っています。今回は特別編として「フィオリオ・シーザー伝説」と題してまとめてみました。


【フィオリオ・シーザー伝説】



※1976年サンレモラリー

当時チームのエース・ドライバーだったサンドロ・ムナーリに勝たせるため、首位走行中のチーム・メイト、ビヨルン・ワルデガルドに「サンドロにトップを譲れ」とチーム・オーダーを発令。

→誇り高き職人ワルデガルドはその露骨きわまりないオーダーに大激怒、頑として聞き入れずにそのまま爆走、優勝してしまう。フィオリオ監督はチーム・オーダーに従わなかったワルデガルドをランチアから放出。その後この手の「チーム・オーダー」はランチアの「お家芸」と化した(?)。


※1983年シーズン前

1982シーズンを席巻し、メイクス・タイトルを奪取した4WDターボのアウディに対抗するべくフィオリオ監督はFR車のオペル・アスコナで苦しみながらもドライバーズ・タイトルを奪取したワルター・ロールを獲得、初戦モンテカルロ・ラリーを制するべくロールにFISA表彰式を欠席させてまでプレ・シーズン集中テストを敢行。

→その甲斐あってモンテではロールがアウディ勢を圧倒、シーズンが終わってみればドライバーズ・タイトルはアウディのハンヌ・ミッコラに譲ったものの、見事念願のメイクス・タイトルを獲得した。というかフィオリオ監督はメイクスを取れればもうそれで十分だったらしい(爆)。


※1986年サンレモラリー

この年はプジョーランチアの激しいタイトル争い。シーズン終盤の地元サンレモ・ラリー、初日プジョー優勢を見て取ったフィオリオ監督はプジョー205のウィングが車両規定違反ではないかとアピール、結果ワークス・プジョー勢は全車失格となり優勝はランチアのマルク・アレン。まさに「サンレモではランチアが勝つならなんでもあり」。

→納得できないプジョー監督のジャン・トッドFISAに提訴。その後ドライバーズ・タイトルは、一旦マルク・アレンのものとなったが……当時のFISA会長ジャン=マリー・バレストル(フランス人)は最終戦終了後にプジョーのアピールを認め、サンレモ・ラリーをWRCのポイント対象イベントから外す挙に出てしまう。最終結果はメイクス、ドライバーズ(ユハ・カンクネン)ともタイトルはプジョーのものとなった。


※1987年シーズン前

グループA規程(年間5000台生産の市販車ベース)に移行した87年シーズン、ホモロゲーションに間に合わないと見たフィオリオ監督、「ファクトリーにはデルタ4WD5000台分のボディとパーツは揃ってるから特例でホモロゲ認めてくれ」とアピール。「認めてくれんかったら撤退すっからな」と駄々をこねる。

→参戦チーム確保のためFISAは渋々認めるが…「市販車ベースのグループA・4WDターボ」なんてものをまともに用意したのはほとんどランチアだけだったのでこの年はランチアのボロ勝ち。まさに「ホモロゲの魔術師」フィオリオ氏の面目躍如。


※1989年ポルトガルGP

フィオリオ氏はこのシーズンから親会社フィアットの意向を受けてフェラーリF1チームの監督に就任。ポルトガルGPでは首位走行中のナイジェル・マンセルがピットインするも所定位置オーバー、リバースギアを使って戻るというレギュレーション違反で失格処分となったが…彼は3周にわたってコントロールラインに提示された黒旗を無視、最後は1コーナーでトップのセナ(マクラーレン)を巻き込みリングアウト、リタイヤとなってしまう。

→憤懣やるかたないマクラーレンロン・デニスは激高して「三回も無視したんだぞ、三回もだぞ!!」と抗議したところ、フィオリオ監督はあろうことか中指を突き上げ「フ※ック!!!」と応酬(爆)。一説には翌年のフェラーリ入りを決めていたアラン・プロストのタイトル獲得をアシストするために、ナイジェルに対して「セナ特攻指令」を出していたとまことしやかにささやかれたが真相は不明。フジテレビ実況の古館氏はマンセルを「雄叫びヒットマン」「人間魚雷」と呼ぶようになる。
<注:一部不穏当な発言が再録されているので「伏せ字」にしました>

※1990年サンマリノGP

どうしても宿敵マクラーレンのマシンの情報が欲しいフィオリオ監督は、自分の娘(長女のジョルジアか?)にカメラを持たせ、タンクトップ&ホットパンツといった「ぱっつんぱっつん」の格好をさせて「スパイ」としてマクラーレンのピットへ送り出す挙に出る。マクラーレンではドライバーのゲルハルト・べルガーやピットクルーは言うに及ばず、総帥のロンまでが下半身を鉄砲ユリと化してコーフンしている隙にまんまとセナのマクラーレン・ホンダの「秘部」を至近距離で激写。

→直後堂々とフェラーリのピットに消えていく「エロいスパイ」の姿がマクラーレンのクルー&ロンに発見されあえなく御用。その正体がフィオリオ監督の愛娘と後に知ったスケベーのロンは怒りと恥ずかしさでユデダコのようになったという。


※1990年メキシコGP

予選は低迷したものの、決勝ではプロスト、マンセルが終盤宿敵セナを次々とオーバーテイクし、1-2体制を築いた瞬間、ピットレーンの上でサングラスを掛けたまま人目もはばからず号泣。

→レースはそのままプロスト-マンセルの1-2で終了、報道陣のフラッシュの放列を浴びながら携帯電話でフェラーリ本社に優勝報告(だからグラサンを外していたのか)、……「積木くずし」の穂積隆信がなぜかイタリア語をまくし立てながら顔中の汗を拭いていた。



とまぁこんな具合なので、地元イタリアのプレスはともかくとして、辛口で鳴らすイギリスのプレスには「どちらかと言わなくても政治家みたいなオッサン」とあまり好かれてはいなかったようです(爆)。その後案の定(?)翌91年にはエースのプロストとチームの主導権争いの末シーズン途中のモナコGP終了後にフェラーリ電撃解任されてしまいますが……3年後の94年にはリジェの監督としてF1に返り咲き、その後は99年からはミナルディの監督も務め、現在はパワーボートチームの監督に収まっているようです。


次回は……90年までベネトンのメカニックを務めていた津川哲夫氏の予定です。


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フェラーリ監督時代…アラン・プロスト(左)、フィオリオ監督(右)

(http://www.prostgp.org/photos/w_fiorio.htm) より……