▲振り向けばブーツェン、忘れた頃のブーツェン

今回の「古舘語録」は、1989~90年にウィリアムズ・ルノーで3勝をマークしたベルギーの「静かなるファイター」ティエリー・ブーツェンです。

ブーツェン選手は1983年にアロウズからF1にデビュー、その後ベネトンに移籍し、着実なドライビングで入賞をコンスタントに重ねてきましたが……初勝利は96戦目の89年カナダGPで、その当時の最遅記録でした(その前のレコードはナイジェル・マンセルの75戦目初優勝。現在はルーベンス・バリチェロが2000年ドイツGPでマークした125戦目での初勝利が最遅レコード。もっとも200戦以上走って結局勝てなかったアンドレア・デ・チェザリスの記録があるわけですが……)。

それでは、「オートスポーツ誌世代」(まだレーシングオン誌が出ていなかったころ)のファンにとっては「ティエリ・ブートセン」だった(そういえばウィリアムズでのチームメイトだったリカルド・パトレーゼは「パトレーセ」と標記されていた)彼のフレーズを振り返ってみましょう。


(1)振り向けばブーツェン

(2)忘れたころのブーツェン


スタート時点では予選トップ・テン下位の地味なポジションでも、セナやプロスト、マンセルやベルガーあたりがさんざん暴れ回った後にスルスルと終盤には表彰台圏内に付けてくる……というティエリー得意のパターンを表した定番フレーズ。リジェに移籍した後の92年開幕戦ドライバー紹介では(1)(2)を連発したバージョンがありました(笑)。

「振り向けばブーツェン、忘れたころのブーツェン、速いティエリーが帰ってきた!!」


(3)コンクリート走法


これも(1)(2)を言い換えたフルタチさんお得意の「~走法」シリーズ。「確実にポジションを固めてくるコンクリート走法!」とかいう用法だったように記憶しています。唐突さという点と語感の座りがいいのか悪いのかよく分からないところは、「己の沸騰する闘志を冷却しながら走る、セナのラジエータ走法」といい勝負だったかもしれません。


(4)F1界のWINK


「WINK」とは90年代初等に活躍した、日本の人気女性デュオ。

で、これはウィリアムズ・ルノー時代のチームメイト、リカルド・パトレーゼとのコンビを評したフレーズでした。確かにこの2人、レース中は寄り添うように走っているケースが多かったように思います。一応ティエリーの方がエース扱いだったようですが、監督のフランク曰く「レース中は特にどちらが優先とか決めているわけではなく、その場での展開次第だ」(これは今でもそうらしい)というようなことを言っていたようです。で、マシン性能も同じとくれば自ずとお互い近くで走ることになるのでしょう。

「F1界のWINKというかツーショット…」といった用法でしたが、それよりも「なかよしこよしのブーツェンパトレーゼではダメなんですよね」のイマミヤ語録の方に夜中思わず噴いてしまったことがあります……っていうか「ブーツェンパトレーゼ」(アクセントは「パ」に)ってニコイチかい(爆)。


(5)F1ガリバー旅行記

(6)優しき大木(たいぼく)


身長183cmとレーシングドライバーとしては大柄なティエリー……他にもゲルハルト・ベルガー(185cm)、エディー・チーバー(181cm)、同郷のベルトラン・ガショー(181cm)、そして我らが電気系統・鈴木阿久里氏(180cm)等々180cm台の大柄なドライバーは何人かいても、ティエリーが「ガリバー」と呼ばれてしまうのは(6)のとおりに優しげで幾分もっさりとした感じがするからかもしれません。

ああ、そういえば、故ケン・ティレル御大フルタチさんから「熟年ガリバー」とのフレーズを奉られていましたが、氏の場合は「顔面厳窟王」「顔面ジンベエザメ」だからちょっとティエリーの場合とは違うか。


(7)F1パイロットの生徒会長

(8)冷静なバッファロー

(9)理科系ドライバー

(10)高速の物理学者


F1に上がってくる程のドライバーともなると、大なり小なり「オレがオレが」みたいなところがありそうなものですが、ブーツェン氏はそういうアグレッシブさをほとんど感じさせないマイルドな風貌。実際プレスへの当たりもソフトでした。才気ほとばしる故アイルトン・セナとも「親友」と言われるほどで、確かに(7)のように言われるのもなるほどと思われます。

でも実際は、機を見て勝負どころでは一歩も引かないファイターにしてチャージャーでした。そして歴代の所属チームの全てで高く評価されたマシン開発能力は、まさに(8)(9)(10)のフレーズそのもの。「背の高いプロスト」とまで言えば言い過ぎかもしれませんが……。

また、彼の趣味・特技として「飛行機の操縦」があり、ジェット機の操縦資格を取得、F1ドライバーのプライベート紹介などの番組ではしばしばティエリーがヘッドセットを付けてジェット機コクピットに座る姿が紹介されていました。


(11)ベルギーの男おしん

(12)悲しき永遠の助っ人人生

(13)プロストの代理ナンバーワンでは苦しい


ブーツェンのシュアでポイントをきっちり取ってくるドライビングは、もっと評価されてもいいところと思いますが……フランク・ウィリアムズ監督はリカルドのように闘志を前面に出してくるドライバーの方が好みだったようで、しかも「先頭集団の座敷わらし」からの脱却を図るには「そこそこ速い」ティエリーでは不十分、と考えていたようです。そして、彼に替わって90年シーズン途中でフェラーリからの離脱&引退を表明していた荒法師マンセルのウィリアムズ復帰が決まってしまいます。

この年のハンガリーでティエリーは念願の初ポールから飛び出し、全く危なげのない展開で後にセナを従えて通算3勝目を初の「ポール・トゥ・ウィン」でマークしましたが、表彰式とその後のプレス・カンファレンスを終えてウィリアムズのピットに帰ってきたブーツェン氏を待っていたのは、何一つ残されていない無人のピットガレージ……と吉本新喜劇顔負けの展開でした。そして数日後にようやくフランクから「おめでとう」と連絡が彼のもとにあったそうです………FAXで(爆)。

ウィリアムズを追われたティエリーは、91年から92年にかけて、そのマシン開発能力を買われてリジェをドライブすることになるのですが、91年はじゃじゃ馬のランボルギーニ・エンジンに苦しみノーポイント、そしてシーズンオフにはフェラーリを飛び出たアラン・プロストのリジェ入りの噂に心をかき乱されることになります。

実際ル・キャステレでロゴなしの白いレーシングスーツを着込んだプロストがリジェを極秘テストする一幕もあり、しかしマシンの戦闘力の問題とチームの主導権を堅持したいギ・リジェの思惑もあってプロストのリジェ入りは最終的には流れてしまうのですが、まさに(12)(13)のようにチームに「キープ君」扱いを受けてなおチームのために全力を尽くす姿は(11)「ベルギーの男おしんとしか確かに言いようがないでしょう。



で、93年シーズンは、ハートV10エンジンのジョーダンで数戦のみスポット参戦にとどまり、以降は活動をスポーツカーに移していくこととなります。94年~97年にかけてはポルシェをドライブしてル・マンに参戦、94年は3位、96年は2位をマークしました。更に、98~99年はトヨタからエントリーしましたが99年の決勝レース中にクラッシュ、重傷を負いモーターレーシングから引退することとなりました。


次回はこれまたウィリアムズ・ルノーで活躍した96年ワールド・チャンピオンのデイモン・ヒルの予定です。


イメージ 1

1989年カナダGPで念願の初優勝、左がティエリー、右がリカルド・パトレーゼ




イメージ 2

同じ年の最終戦・オーストラリア、豪雨の中2勝目をマーク、この時の4位が中嶋悟






【参考リンク】
◎nigel's bookmarks for bookshelves / T.Boutsen
~関係リンクを集めました。
◎おしん-Wikipedia
NHK朝の連続テレビ小説。83.4~84.3の1年間放映、平均視聴率52.6%。苦労の末スーパーの経営者となった東北の農婦の一生を描いたドラマ。後に世界63ヶ国で放映され、「世界で最もヒットした日本のテレビドラマ」と言われています。