▼差別とヘイトスピーチQ&A(1)「差別する心」(Q1-Q2)

「異文化交流考察」の第3論考「ヘイトスピーチ」2回目は……といきたいところだったのですが、ヘイトスピーチの論考はこれまでの差別についての論考と重なる部分が多く、それゆえこれまでの論考の繰り返しになることも多いことから、整理とまとめも兼ねてQ&Aの形式でしばらく書いてみます。

エスチョンのネタはオリジナルのものにはこだわらず、web上に面白いものがあれば引っ張ってこようとも思っています。記事何回分になるかは、現時点では決めていませんが、「ヘイトスピーチ」固有の問いも織り込んで進めていく予定にしています。


今回のテーマは「差別する心」……以下の5問にまとめてみました。
(字数制限があるので今回記事ではQ1~Q2まで)

Q1 差別をしない人間はいると思われますか?


この世の中に「差別をしない人」はいない、誰しも「差別する心」を持っていると思います。

「差別」とは、端的に言えば「正当な理由によらず、偏見や先入観に基づいて、あるいは無関係な理由によって、特定の人物や集団に対して不利益・不平等な扱いをすること」(差別-Wikipediaより)ですが、その根底となる偏見や先入観、あるいは固定観念等々は、程度の差こそあれ、誰しも持っているものだからです……と書いてしまえば、ちょっと同語反復的でしょうか。

上のWikipedia(日本語版)の説明を、「自/他」をキーにして言い換えれば……

差別とは、「自己と他者を峻烈に区別することによって生じる他者抑圧的な思考・言動の作用」の極端な一種、ということになるかと思いますが、その「峻烈な区別」は、最初から他者抑圧的な意図をもってなされるわけではありません。むしろ「異質なる他者」に対する恐れや嫌悪等からの自己防衛機制として発動し、再帰的にリライトがくり返される中で結果的に他者抑圧的に作用する…と考えられます。

と、次はやけに持って回った言い方になってしまいましたが、平たく言えば、「コミュニケーションの齟齬」から差別は生まれる……ということになるでしょうか。もちろん「異質な他者」への自己防衛・再帰的な機制が全て差別につながる、というわけではありませんが、「差別」とは、「****を差別してやろう」と勢い込んでするようなものというよりは、理解できない他者との関係の中で知らず知らずの間に「差別する側」に引き込まれてしまうような危うさがあると思います。

ついでながら、もう少し細かく言うと、「差別をする」は、分解すれば……1)差別意識を持つ 2)差別的な言動を実際にする、という2つの様相があります。ですから、自らの中の差別意識に気付き、「差別的な言動を実際にはしない人」という例はあり得る、と思われます。もちろん、差別的言動を差し控えるその動機は様々ですが……。




Q2 「差別をしていない」(あるいは「差別はいけない」)と言った時点ですでに「差別をしている人に対して差別をしている」というパラドックスに陥っていないでしょうか?


陥っていません。

この論法は、いわゆる「クレタ人は嘘つき」という「自己言及のパラドックスのトリック」のバリエーションに当たるでしょう。議論などの中で、「決め付けは良くない」→「決め付けは良くないと決め付けるな」とか、「まず異論を対等に見よう。押し付けは良くない」→「そういう意見を押し付けてる」というものもまた同じパターンです。

これらの論法は、もちろん異論封じ、対抗言論封じのためのトリックにすぎないのですが、返し方としては、大別すると次の2種類あると考えます。

1)「差別をするようなヤツだけは、差別してもいいのだ」

これはこれで、返し方としてはあってもいい、とは思いますが……というのも、些か大げさに言えば、「差別」という人間性の尊厳を毀損する行為に対する異議申し立てが「差別はいけない」なのだから、そういう意味で大前提となる価値観を公定化しておかないとキリがないというか収拾がつかない、とも考えられるからです。

「お互いの個性を尊重する」というなら、「差別をせざるを得ないメンタリティ」も尊重されるべきではないか……となると、往々にして相対主義的な立場では「人それぞれ」「だからそれはそれで否定できない」という一種のアポリアに落ち込む、ということは確かにあるでしょう(相対主義における「理解と尊重」を異質な他者を「一切批判するな」という意味に取るのは間違いなのですが…それはここではおいておきます)。

とは言っても、「差別していいのだ」で返すというのは相手側の注文相撲にハマるというか、「待ってました」というか……後段の「差別していいのだ」というフレーズに反応されてしまう無限ループが待っているだけです。

「差別する人を差別する…のトリック」のポイントは、「~してはいけない」を一種の定言命法(無条件命令)として投げ返すところにあります。

2)「相手を理解したい」「対等な他者として認めたい」のなら、「差別してはいけない」。

この「差別してはいけない」というフレーズが言説として有効なのは、このフレーズに暗黙の条件が組み込まれている一種の「仮言命題」(条件付き命題)の場合です。例えば、「異質な他者を理解したい」「対等な他者としてつきあいたい」のであれば……「差別をしてはいけない」ということなのです。そしてこの「条件」は、いわば近代以降の市民社会の最もコアな概念の一つとして地域差はあれど次第に共有されてきた(はず/ことになっている)ルールです。

言い換えれば、他者も対等な存在として尊重するという「基本的人権」という概念の核になる部分、と言えるでしょうか。ここで言う「仮言命題」とは、イメージとしては、スポーツやゲームのルールやレギュレーションを念頭に置けば分かりやすいと思います。その「スポーツやゲームをやりたいのであれば」という条件がルールやレギュレーションには組み込まれています。

「差別」についても、「どうしてもオレは差別をしたい」というならそれはその人の自由なのかもしれません。しかしながら、基本的人権をテーゼとしている近代以降の市民社会という枠組みの中で生きている以上、それがヘイトスピーチなど具体的な言動として現れてしまうならば、それ相応の評価をされざるを得ない、ということになります。ちなみに「差別をしてはいけない」という命題それ自体は行動原理という意味での「倫理」ではありません。それは近代以降の市民社会の核となる「ルール」や「レギュレーション」といったものであって、「差別はいけない、という命題に従うのかどうするのか」という選択の問題が「倫理」となります。






【元ネタ】
◎OK Wave -「差別の心」(http://okwave.jp/qa667233.html)
~元の設問から、意味がわかりにくいところについては、部分的に語句を変えています。また、Q5は私自身が考えました。