▼差別とヘイトスピーチQ&A(2)「差別する心」(Q3-Q5)

Q3 「差別はしない方がいい」という考え方は今の社会の風潮として定着していると思われますか?


前項でも説明したとおり、近代以降の市民社会は「差別はいけない」という概念を核として組み込んでおり、その枠組みの中で法や社会諸制度が整備されてきました。もちろん個別の事例の中ではなかなかそう直線的に進んできたわけではなく、地域の差もありますが、全体としては「一般的な社会通念」となっていると考えられるでしょう。

しかしながら、「差別をする心」とは<1>でも述べたように誰の中にもあるものであり、また、差別自体がある種の再帰的な防衛機制として働くものであることから、現実には「これは差別ではない、合理的な理由があるのだ」とされる差別やヘイトスピーチは後を絶たないのもまた事実です。


Q4 「差別をしない人はいない」ということを認めた方がよい社会になり得ると思われますか?


もちろん。

差別意識そのものはある意味人それぞれの内面の自我にもかかわる問題だとも思われるので、「根絶できるか」といえばなかなかそういうわけにもいかず、また「根絶できるはずだ」と直線的に考えるのもまた現実的ではないでしょう。「差別をしない人はいない、ということを認める」とは、認識のゴールではなくあくまでもスタートに過ぎない、と考えています。

だから、「差別をしない人はいない、ということを認める」から「差別はよくないと考えること」が無駄であるということではなく、その点を踏まえた上で偏見や差別、ヘイトスピーチヘイトクライムがこれまでの歴史上何をもたらしてきたか……を考えれば、やはり能う限りなくしていくための取り組みは必要です。そのためには、差別そのものの不当性だけではなく、差別が形成され、ヘイトスピーチヘイトクライムにつながっていく過程や構造も同時に検証していく必要があると思われます。

つまり、差別に係る問題の所在は、ある特定の他者抑圧的な言説・行動が「差別に該当するかどうか」という色分けをするための基準を示し、「差別に該当するならアウトで該当しないならセーフ」というところにあるのではなく、「異質な他者」に対する再帰的な防衛機制としての「ネガティブな他者認識」が抽象化・単純化され、時には対抗言論のフィードバックを受ける中で再帰的にリライトをくり返し、個別の固定観念から社会的に構造化された「差別」へと転化していくそのプロセスにある、と考えています。


Q5 「差別」や「ヘイトスピーチ」をなくすためには「ヘイトクライム」を対象とした法律で規制するべきだと思われますか?


正直微妙なところです。

押さえておきたいポイントは、法で規制するのはあくまでも外形的に現れた「ある人種、民族、宗教、性愛の有様など異なる「集団に対する偏見・差別・蔑視」感情などが元で起こされる犯罪行為、とくに暴行、脅迫、殺人などの暴力犯罪」に対してであって、差別意識そのものではない(というかそこまでは法でも踏み込めない)ということです。

現にアメリカやイギリスを中心とした欧米諸国では「ヘイトクライム」に対する加罰規定が法に設けられています。この部分については色々と議論があり、現に加罰既定を導入している欧米諸国においても、結局は人の言論の自由や内心に踏み込むものではないのか、という批判もあるようです。また、日本にこういう規定を導入するのはどうか、となれば私自身は正直「ちょっと待った方がいい」と思うところもあります。

とはいえ、その社会の「こういう言動は認めない」という姿勢を表す意味ではヘイトクライムの法規制には意味は当然あると思います。ただ難しいのは実際に運用する際の「線引き」であって、法の適用ではやはりそのあたりの厳密さは求められるのですが、そうなると、「差別」をめぐっての定義合戦のようなものというか「アウトかセーフか」といった話(つまり法を適用するかどうか)に現実としてはならざるを得ないのでしょう。






【元ネタ】
◎OK Wave -「差別の心」(http://okwave.jp/qa667233.html)
~元の設問から、意味がわかりにくいところについては、部分的に語句を変えています。また、Q5は私自身が考えました。