▲「地味こそものの上手なれ」デイモン・ヒル
デイモンは、1960年代にロータス等で活躍した名ドライバー、グレアム・ヒル(62・66年ワールド・チャンピオン)の長男として生まれました。父グレアムはドライバー引退後、F1チームを興しますが、75年、チームメンバーを乗せて自ら操縦していた飛行機の着陸に失敗し、この世を去ってしまいます。
長じてデイモンもモータースポーツを志し、苦労を重ねながら92年に「F1小町」ジョバンナ・アマティの後任としてようやくブラバムからF1デビューを果たしますが……マシンの戦闘力不足はいかんともしがたく、この年は予選通過ボーダーラインを行ったり来たりという状態でした。
しかしながら、平行して務めていたウィリアムズ・ルノーのテストドライブとそこでの高評価が彼の身を助けます。93年、アラン・プロストのウィリアムズ加入に伴い、2つ目のシートをめぐってマンセル、セナ、パトレーゼが激しい争奪戦を繰り広げた末、全員共倒れの状態となってテスト・ドライバーのデイモンに正ドライバーの座が文字どおり転がり込んできたのです。
またまた例によって前置きが長くなりましたが、オトコ33歳にしてようやくF1でコンペティティブに闘えるマシンを手にした「カーナンバー0」(93、94年とも前年チャンピオンがF1から去りカーナンバー1が「空席」となったため)のデイモン……渾身のフルタチ語録の数々を振り返ってみましょう(笑)。
「好きこそものの上手なれ」のもじり。
顔だけ見れば歴代F1ドライバー屈指のオトコマエ、でもレーサーにしてはアクがなさすぎる。テストドライバーからワークスチームに抜擢されて、それ以前のレース歴に今ひとつ華やかなところがなかったからなのか、どうしてもデイモンといえば「地味」で垢抜けないイメージがありました。
でもドライビングに派手さはなくても、逆にきっちりマシンを仕上げてタイムをステディに出してくるところは「テスト・キング」と言われた彼の持ち味でもありました(その分周回遅れの処理が苦手と言われていましたが)。
(2)親はなくとも子は走る
(3)高速DNA実験室
(4)音速のリ・インカネーション
(5)才能の遺産相続
(6)グラハムの遺伝子走法
(7)エディプス・コンプレックス走法
(8)父と子のフィールド・オブ・ドリームズ
やっぱりデイモンのフルタチフレーズといえば、父グレアムネタが多かったのですが、(2)で「親はなくとも子は走る」(「親は無くとも子は育つ」のもじり)と言いながら(7)で「エディプス・コンプレックス」とはいかがなものか(笑)。この中では(8)の「フィールド・オブ・ドリームズ」が好きです。
(9)F1中井貴一
初めこのフレーズを聞いたときは顔のことを言っているのかと一瞬思ったのですが、これは父グレアムを故佐田啓二(1940~60年代に活躍した二枚目スター。64年自動車事故で急逝した。)になぞらえたネタだと思われます。でもデイモン=中井貴一というのも妙にしっくり来るような。
来た(笑)。ウィリアムズでの歴代チームメイト……プロストの「フランスの水の旅人」、セナの「風の印象派」、マンチャンの「風とともにぶっちぎりで去りぬ」に対してデイモンの「風の中のバロン」。やっぱりセナとナイジェルの間にどうしても越えられない「壁」があるようです。
これはうまい。
93年シーズンでのプロストのセカンド・ドライバーとしてのポジションを「チーム内サイドギター」とはホントに一発決まった技ありのフレーズでした(笑)。ちなみに、デイモンとジョージ・ハリスンは実際に親交があり、若い頃は「セックス・ヒトラー・アンド・ホルモンズ」というあまりにも鋭すぎる名前のパンクロックのバンドをやっていたそうです。F1にステップ・アップしてからもギターの腕前はプロ級と言われ、イギリスGP後恒例だったエディー・ジョーダン主催のコンサートでは日頃の地味なイメージとは裏腹に、エレキをかき鳴らして激しくシャウトするデイモンが目撃されていました。
(13)F1後期印象派
(14)一人高度経済成長
(13)は、ウィリアムズに移籍した93年の後半戦、ハンガリーGPで初勝利を含む3連勝を挙げたこと、また(14)は……93年シーズンの驚異的な「成長ぶり」を指しているフレーズだと思われます。
(15)F1メガドライブ走法
(16)白昼の流れ星
(17)セナコンからファザコン、そんなものを振り払って
セナの代表的なフレーズ「白昼の流れ星」をデイモンにも使うのは……いかがなものか(笑)。で、(17)は94年パシフィックGP(岡山県:TI英田)でゲルハルト・ベルガーやマーティン・ブランドルとバトルを繰り広げていたシーンでのフルタチ絶叫。ファザコンはまぁ分かるとしても、「セナコン」なんてタームがいきなり出てくるのがやはりフルタチ節、といったところでしょうか。
(18)上げ底の栄光に別れを告げて
「上げ底の栄光」……何か微妙というか絶妙というか、94年シーズン、鈴鹿の前まではライバルのミハエル・シューマッハ(当時ベネトン)がリタイヤするか欠場する際にしか勝てなかったデイモンを一言で表現したスナップ・ショットでした。鈴鹿では、豪雨の中デイモンはミハエルから大逃げを打ち、初めてガチでミハエルを下したのですが…ファイナルラップ、デイモンのウィリアムズのタイヤは既に限界を超えていて、コーナーごとにスライドしようとするマシンを懸命に押さえ込む渾身のドライビングでした。
(19)心のビッグ・ベンを打ち鳴らしたい
それにしても「心のビッグ・ベン」って一体何なんでしょうか(笑)。
1996年シーズン、年間8勝をマーク、デイモンはようやく悲願のタイトルを手にします。が、ルノー・ワークスエンジンの後釜としてBMWのパワー・ユニットを狙うチーム側は、ドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンを獲得、デイモンはチャンピオンナンバーを持って「格下」のアロウズ・ヤマハへと移籍する羽目になってしまいます。
「もうこれでデイモンは終り」と思った関係者、ファンは多かったと思いますが……実際97年の開幕戦オーストラリアではカーナンバー1のマシンがあわや予選落ちという「怪挙」を達成しそうになるなど、前年とはうって変わってデイモンは苦境に立つことになりました。でもここからが凄い。ハンガリーでは突如トップを快走、終盤ギアボックストラブルで2位に落ちるもののこちらはあわやアロウズ初優勝の「快挙」かと衆目を集めます。そして翌98年には無限ホンダを積んだジョーダンに移籍、豪雨で大混戦のスパを制してウィリアムズ移籍後の、そしてジョーダンGPにとっても初めての優勝をマークしました。
翌99年は更なる躍進が期待されたのですが、モチベーションの低下と年齢による体力の衰えからこの年限りでF1から引退しました。その後はすっぱりとドライバー業から足を洗い、現在はBMWのディーラーを営む傍ら、レーシングクラブも運営、ジャッキー・スチュワートに代わってBRDCの会長にも選出されるなど充実した(?)隠居生活のようです。
次回は、これまた「二世ドライバー」デビッド・ブラバムの予定です。