▼web空間における「パブリックな私」を考える4つのメモ(2)web空間で個人情報が晒された事例



2 webで個人情報が晒された事例


実際web空間には、特定の個人に対して半ばリンチと化した集中攻撃が行われる中でその個人情報が晒され、攻撃にターボがかかる事例が多く残されている。

荻上チキ氏「ウェブ炎上」(ちくま新書2007.10)は、サイバーカスケードという概念をキーにweb空間における言説の現状に係る優れた論考の一つであるが、その第一章では、web空間でよく知られているそういう「炎上」事例がいくつか紹介されている。その一つを抜き出してみよう。


●ケース1 JOY祭り
2003年5月、JOYというハンドルネームの女性は、夫と弟夫婦と子供たちと共に居酒屋で食事をしていた。食事に飽きはじめた子供たちは、店内を走り回って遊びだす。それを見た店員が「親のしつけが悪い」とつぶやいた。そのことを知ったJOY一家は、その店員を見つけ出し、制裁を加える。彼女はその一部始終を日記で報告し、客の悪口を言うのはサービス業としてあるまじき行為であり、殴られて当然というコメントを加えた。

このウェブサイトのURLが2ちゃんねるに掲載されると、多くのネットユーザーがBBSにて非難のコメントを書き込みだした。
(中略)
非難のコメントにとどまらず、わずかな情報から、JOYの本名やプロフィール、過去のオークション履歴、本人の画像、自宅の画像、自宅への地図、事件のあった居酒屋の名前がさらされ、過去の日記から新たにいくつかの「問題ある行動」が列挙された。彼らはそれらを警察や市役所、週刊誌に通報。掲示板やJOY関連サイトなどで、JOYに対して「誠実な対応」を要求する。まとめサイト、オリジナルのAA(アスキーアート。パソコン・携帯電話などの文字を使い作製された絵)、コピペ等がいくつか作られ、「祭り」を盛り上げるためのフラッシュ(アニメーション動画)も作製された。これらの騒動を受け、JOYは「謝罪の意を込めて当サイトの運営は2003年6月2日をもって閉鎖」すると表明、予告どおりHPは閉鎖された。
(荻上チキ「ウェブ炎上」第一章・ウェブ炎上とは何か:P41~P43)

このように、自らの実社会での「武勇伝」をwebコンテンツとしてアップしてしまったことをきっかけに個人情報が集められ、特定された実例の中で、他には次のような例が広く知られている。

※エアロバキバキ事件
~就職が内定した東京の私大生が、接触事故を起こした相手側の運転手に暴力を加え、クルマにも損傷を加えた。
キセル土下座事件(仮題)
~関東の国立大生が、キセルを注意した駅員に向かって逆ギレし、確たる証拠がその場で見つからなかったことをいいことに土下座させた。
テラ豚丼事件
~吉野屋のアルバイト店員が、面白半分で通常では考えられない量の豚丼の具を盛っているシーンを動画に収録し、web(ニコニコ動画)に「テラ豚丼」としてアップした。
※ゴキブリ唐揚げ事件(仮題)
ケンタッキーフライドチキンでアルバイトをしていた高校生が、厨房で捕まえたゴキブリを冗談半分で油揚げにした(その後本人は実際にはしておらず、ネタとして書いただけと釈明)

上の事例を見て、「いや、これは攻撃のターゲットとなった人々の行動が極端かつ不用意なだけであって、”普通の”人々には関係がない」と思われる方々も多いかもしれない。確かにそれはそうであって、正直私自身も「こいつらアホとちゃうか」とは思う。しかも上の実例のうち、下の2つはmixi発の例であり、いくら「完全会員制」のクローズドな空間とはいえ、本名や学校・勤務先等を明らかにした状態あるいは断片をつなぎ合わせれば容易に特定されるような状態で、「常識的に考えれば広く批判を受けるであろう」ことを書くとはあまりにも「脇の甘い」振る舞いだとは思う。

しかしながら、今回の記事で上記の例を挙げたのは彼ら/彼女らの行為が「ネットリンチ」を受けるに値するのかどうか、あるいはネットリンチそのものの是非を考えるためではなく、その気になれば「断片的な情報」からでも個人情報が特定しうること、どれだけ気を付けていたとしてもある程度の期間web上にコンテンツを公開していれば、その「断片」は次第に増えていくことが充分あり得る、ということを指摘したかったからである。また、「誰にでもわかりやすいおかしな人の言動」だけが「攻撃のターゲット」となるのではなく、ちょっとした考え方や趣味性向の違いやずれ、あるいは優越感ゲームや自尊心バトルのもつれを発端とした何ということもない言動が問題視され、度を超えたサンクションへ至る例も決して少なくない。

また、トンコさんがインターネットは恐ろしい(1)で「今は大丈夫でも将来は大丈夫?」と書かれていたように、特段何の意味もない個人情報(例えば出身校など)が後に特別な意味を持ってしまうこともあり得る。

そこで行き当たる疑問点は、一つは今回挙げたような「脇の甘さ」とも捉えられる例が何度となく繰り返されるのは何故なのか、またもう一つは、「書くこと自体をやめる」以外に「絶対安全な」個人情報のコントロールとは何か、あるいはそういうもの自体そもそもあり得るのか、ということである。「世の中にはバカが多いから」と言ってしまえば見も蓋もないが、そう言ってみたからといって、自分自身がその「バカ」にはカウントされないという保証にはおそらくならないであろうし、またそう思えるのは要は自分自身がたまたまメタに状況を見ていられる位置にいるからに過ぎないだろう。

(次回「それもまたパブリックな私」に続く)