▼web空間における「パブリックな私」を考える4つのメモ(3)それもまたパブリックな私

<web空間における「パブリックな私」を考える4つのメモ:過去記事>

3 それもまた「パブリックな私」


これまでの論考で念頭においていた「web上のコンテンツ」とは、HTMLベースのいわゆる「ホームページ」と、あるいはブログやmixiなどのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)、さらには各種掲示板であったが、「個人情報」のコントロールを考える上で忘れてはならないネットサービスの形がある。

それは「webアルバム」(「オンラインウェブアルバム」とも)という形態のwebコンテンツで、今や最大手となった感があるFlickr(フリッカー、米ヤフー傘下)をはじめとして、Webshots(これは欧米系のユーザーが多いか)やgoogle傘下となって無料化されたPicasa、その他PhotoHighwayやフォト蔵、あるいはニコンキヤノンエプソンなどカメラ等のメーカー系のものまで多種多様なサービスがここ最近増えてきている。また、Yahooフォトや私自身が今使っている「はてなフォトライフ」など、ホームページやブログホスティグサービスを提供する企業系のものも含まれるだろう。

その「出自」は画像倉庫的なものから発展したもの、あるいはSNS的なものから一般公開できるように発展したもの(フリッカーなど、こちらのほうが主流か)、様々である。また、その使われ方もリテラルにウェブ上のオンラインアルバムとして使われている場合もあれば、ブログサービスやHTMLベースのホームページのための画像倉庫的に使われている場合もある。

ちなみに、大半のサービスが無料で提供(画像容量等機能制限あり、有料で制限を解除できるものもある)されている。

私自身は、鉄道関係(特に海外)の画像を探す中で様々なwebアルバムのサービスを目にする機会があったのだが……とにかくいくつか例を見ていただこう。


何でもいい、キーワードで画像を検索できるところ、あるいはフォトアルバムや画像が何らかのカテゴリで分類されているページがあれば、そこに任意のキーワードを入れるかリンクを進むなりして画像を探してみよう。

上に挙げたサービスの中でも、フォト蔵はともかくとして、海外発のフリッカーやピカサは国内ユーザーの利用も多い(日本語対応あり)。そして、これらのスペースにアップロードされている画像群は………ホームページやブログ顔負けの「個人のプライベート画像の宝庫」である。もちろん、特にSNSサービスから派生したものでは画像の公開レベルのコントロールが可能であって、管理者(サービスのユーザー)が見てほしい人だけに限定している画像も多いと思われるが……。

それ以上に驚きだったのは、日本とはweb上での「匿名/実名(あるいは顕名)」に関する考え方が異なるとされる主にアメリカ圏のユーザーがアップしている画像なのだが、観光地やリゾート地、あるいは学校のクラブ活動や地域のスポーツ行事、そしてクリスマスやハロウィン、誕生日や果ては結婚式、同窓会に至るまで、個人のリラックスした姿(あえてそのように記す)、つまり「プライベートの領域に属するはず」の画像が大量に「堂々と」誰にでも(もちろん何の関係も係累もない外国人たる私にでも)閲覧できるような状態で公開されていることだった。

もちろん一個人のポートレイトがwebにアップされたからといって、すべてのケースで即座に実名や住所、年齢・職業……といった個人情報に結びつくわけではないだろうが、「何かあったとき」には個人情報を引き出す有力な素材となることは想像に難くない。正直なところ、私自身は「この人たち、本当にこれでいいのだろうか、大丈夫なのだろうか」と一瞬考え込んでしまう。ここまでの2回の記事では、web空間に残したちょっとした断片からも個人情報が……みたいな話をしていたが、ましてや個人の顔写真をモロにアップなどハナから「論外」だったはずなのだが、そんな認識を真っ向微塵にちゃぶ台返ししてしまう星一徹な話である。

動画共有サービスの「最大手」YouTube(最近日本語版もできた)創設のきっかけが「ディナーパーティーで撮影した静止画と動画を参加者に配ろうとした時、動画の配布だけがとても難しかったため、簡単にシェアできる仕組みが欲しいと思った」(*創設者チャド・ハーリー氏談)だったのは有名な話であるが、オンラインウェブアルバムサービスも同様に大半が「近しい人々との素早く効率的な画像共有」のために使われていると思われる。だからこそ「プライベートの領域に属する」ような画像がホームページやブログ以上にやりとりされているのだろう。しかし私自身が、例えば社員旅行で撮ったデジカメの画像を同じようにオンラインウェブアルバムにアップするかといえば、やはりためらいがある。面倒であってもCD-ROMに焼いて回覧するなどオフラインのやり方をどうしても選ぶであろうし、実際そうしている(最終的には「お金出すからプリントしてきて」とか言われてしまうのだが)。



と、ここで少し話が変わるが、最近……昨年の年末のことだが、会社の同期連中と飲みに行く機会があった。横並びの新入社員のころとは違い、今では職階も少しずつばらけて来た感があるが、実際勤務時間を離れて顔を合わせると今も「学生気分が抜けきらない」アホな昔のままである。

それはともかくとして、隣に座った、私と同様に小学生の子供のいるひとつ年上のニイさん(現役、浪人、学卒に院卒といろいろいるから)とお互いの子育ての話から始まって、「インターネットをどうやって使わせればいいのか」そして最後は「ネット上での個人情報」へと話題が広がっていった。そこで聞いたのが、何でも氏の所属の仕事関係で、社外の人なのだが、名前こそ伏せているが氏の所属や関係業界のネタをネットでずっと書いている人がいるらしい。で、彼いわく、「何かもうここまで主観的に書けるわ、っていう感じ。実はうちの課でもバレバレなんやけど、まぁみんな知らん振りしとんねん」。

そこで私も先述のwebアルバムの話を彼に振ってみた……「あれは一体どういうことなんやろなぁ…モロやで、顔にモザイクも目線もあれへんし(笑)、長辺1600とか3000ピクセルとかのでかい画像ビシバシやで」。

うーん、と一瞬考えた後に彼が発した次の一言と、トンコさんの記事インターネットは恐ろしい(1)インターネットは恐ろしい(2)が今回の論考シリーズのきっかけとなった。


「うん、だからな、それもまた”パブリックな自分”やねん、欧米のあの人らにとっては」
「なるほど、たとえ”プライベートな”内容でも、やね?」
「そうそう、あくまでも”パブリック”なんや。だから”ホンマの自分”は別、というか」
「いや、それこそが”ホンマの自分”なんかもしれへんで、極端に言うたら、自分の部屋から靴履いて外に出たところから”公共空間”なんやからあの人らは」
「ほー」

もちろんそのとき私の頭の中にあったのは、ハンナ・アレントとかの「公共圏」概念……ってまだきっちり精読できてはいないけれど。

「なるほど」と言いながら、実はそのときはまだ十分に頭の中が整理できてはいなかった。ただ彼が使った「パブリック」という言葉の意外性が深く私の頭の中に突き刺さっていた。「プライベートな姿」なのだけれど「パブリックな私」。この「パブリック」という言葉の意味とその射程が、web空間における「私」あるいは「個人情報」のあり方を考える上でのキーにもなるかもしれない、と感じた。おそらく、いや間違いなく、個人情報のコントロールをリスクマネジメントの観点で考えるなら、「正しい」オンラインウェブアルバムの使い方は、「プライベートモード」に徹することだろう。その一言で済む問題だと思う。また、実際にFlickrやWebshotsのユーザーであるアメリカ圏(さらにはヨーロッパ圏も含めてもいいか)のユーザーが「これもまたパブリックな私」とどれだけ意識しているか、本当に、パーフェクトにそう思っているかどうかは本来なら精査の余地があるであろう。

さらに言えば、「個人情報のコントロールの仕方」の技術については、私がここで考察するまでもなくweb空間に数多く公開されてもいる。ただ、私がどうにも引っかかるのは、「パブリックな私」を敢えてweb空間の可視化されうる場所へ出してくる意味と、「コントロールの技術」が「真に」必要とされていることの意味である。顔にモザイク等のフィルタリング処理をかけていれば……「セーフ」「よく考えられている」「リテラシが高い」とオートマチックに言い切れるのか、逆にかかる「技術」だけを見ているだけでは多種多様なケースを考える中で「結局”チラシの裏”に書くのがベストなんだよ」という身もふたもないことにならないか。

このシリーズ最初の記事でのトンコさんへのコメントにも書いたとおり、個人情報、といってもそれこそ本名や出身校、年齢、それから性別それ自体も……といろいろあって、各個人がどこまで公開するかのレベルというかレイヤーはそれこそ千差万別で、どの組合せが絶対的に正しいとは言えないだろう。だから、「こういう個人情報は出すべきではない」あるいは「こういう個人情報を出したからこうなったんだよ」という後付の理屈からアウト/セーフの線引きを云々するだけではなく、web空間でコンテンツを発信すること=不特定多数に「見られる」ことの意味まで遡って考えてみようと思う。

今の時点で、整理しておきたいポイントを次回への頭出しを兼ねて書き出し、今回の締めとしておきたい。


※「パブリック」の意味
~プライベート/パブリック/オフィシャルの3層レイヤー←→プライベート/オフィシャルの2層レイヤー
※「パブリック」という語の射程
~webコンテンツが置かれる「場」に向けて←→webコンテンツそのものの内容に向けて

(次回「webという公共空間と私」に続く)