▼web空間における「パブリックな私」を考える4つのメモ(4)webという公共空間と私

<web空間における「パブリックな私」を考える4つのメモ:過去記事>


4 webという公共空間と私


この一連の論考では、web空間における「個人情報のコントロール」を「危機管理」の観点だけでなく、「公共空間」という観点からも考えてみようとしてきたが、そもそも「web空間とは公共空間なのか?」とほかならぬweb空間の中では繰り返し問われている。「公共空間」という語に何を織り込むかで考え方は違ってくるのであろうが、ごくフラットに、「公共空間」という語を「複数~不特定多数のいろいろな趣味性向や考え方を持つ個人や集団が入り混じり、”共存”している空間」であると考えるなら、web空間もほかならぬ「公共空間」であると私自身は考える。

ただ、web空間の特徴としては、そこで公開された文字や画像や音声などの「データ」は基本的に無限に複製が可能で、一度リリースされたものは実質的に「回収不可能」となりうること、また、データという形で公開されるが故にそれは「いつでも可視化されうる」状態にあること、そして可視化されてしまえばリアル以上にもともとのコンテクストから独立して一人歩きを続ける可能性もまた高い……等々であろうか。

と、考えれば、過去記事の2回目(2) web空間で個人情報が晒された事例で挙げた事例、バイト先のケンタッキーで「ゴキブリを揚げた」とmixiに書いて「炎上」した高校生の例だが、彼はマスコミの取材に対し、「まさかこんな騒ぎになるとは思わなかった」と答えたという。確かにmixiは完全会員制の「クローズドな空間」と考えられてきたが、アカウントを取る人が増え、自分の発信したコンテンツを目にする人が増えてくるに従って、パスワードロックで守られている空間といえども、必ずしも「気の合う仲間内でのごく限られたプライベートな空間」ではなくなってきている。

この高校生の「まさか……」を「公共空間」論との関わりで考えれば、それは「web空間にコンテンツを出すこと」=「公共空間へと踏み出すこと」という意識の欠如であるということになるだろう。しかしこの「公共空間に向かって踏み出すこと」の意味は、人によって受け止められ方が大きく異なるのではないかとも思う。

というのも、「公共空間」、英語で言えば私がこれまでの記事タイトルにも使ってきた「パブリックな空間」ということに一般的にはなるであろうが、また、半ば日本語化した言葉であるとも言えるが、その「パブリック」という語の含むところは多義的であり、そこがまた日本における「公共空間観」に微妙に影を落としているからである。「個人情報」をコントロールする意識とその意義について、ことさらに軽く見てしまったり、あるいはまったく逆に極端にリゴリスティックに考えてしまったりするゆらぎは、「公共空間」/「パブリックな空間」という概念の多義性にその原因の一端があるとも考えられる。

よくいろいろな論考でしばしば指摘されることだが、日本人の「公共空間観」は、ヨーロッパやアメリカのそれとは異なっていて、しかもプライベート(私的な)空間に「政府や国家」等が直結して対置されていて、その中間帯への概念が欠けている、と言われている。

たとえば、いわゆる景観論争について書かれているwebのコンテンツを探していたときに見つけたこのような論考。


これに対して欧米人は自立心が強いので、たとえ家の中であっても自分の部屋を出た瞬間からが「外」である。あるいはベッドを出た瞬間から靴を履くので、そこからが既に「外」である。しかし日本人と違うことには、「外」とはいっても、完全に無関係な世界に行く手前にもうひとつ「地域(コミュニティ)」という「中間帯」を持っていることである。この中間帯では個人は自立はしているが、それぞれに社会的な義務を負っている。だから自分勝手な行動は許されずに、あくまでも社会の一員としての行動を行うのだ。日本人の場合はこの点が異なる。「内」からいきなり「外」に出てしまう。家族という内部の世界は甘々だが、いきなり外部に出るとお互いに厳しい対立関係が待っている。ここに日本人の「内にやさしく外に厳しい」側面が形成されているようである。
(「景観論争の現実」("普通の人のための経済学":クリオさん)より)<太字部分はo_keke_nigelによる>

些か図式的、という気もするが、上の論考では「公共空間論」の論点が端的にまとめられている。プライベートとパブリック(公共)との境界線の違い、そして「中間帯」という概念とその意味。

あと、以下の論考では、「パブリック」という言葉の多義性についてピンポイントで論じられている。


ひとつは「最近プライベートな領域が偏重されて、社会的資本として共同利用するという考え、すなわちパブリックの概念が希薄になっているのではないか」というもので、もうひとつは「パブリックの概念が成立する前提として情報公開と説明責任が不可欠だ」というものである(議事録は http://www.jpc-sed.or.jp/cisi/senmon-giji15-04.htm を参照)。いうまでもなく、前者はプライバシー保護を主張する住基ネット反対運動に対して、後者は総務省の情報公開や説明の不十分さに対して、批判的な視点を含んでいる。

一見まったく異なる意見に聞こえるが、実は「パブリック」ということばの多義性から生じた違いにほかならない。そもそも「パブリック」あるいは「公共性」とは何か。このテーマを考察するうえで大きな示唆を与えてくれたのが齋藤純一の『公共性』(2000年、岩波書店)だ。それによると、公共性(パブリックであること)には、国家に関係する公的なもの(オフィシャル)、すべての人びとに関係する共通するもの(コモン)、誰に対しても開かれていること(オープン)の三つの意味が含まれるという。

オフィシャルではあるが、コモンでもオープンでもない。これが日本社会における伝統的な「公共性」だった。住基ネットの構築・運用もこの発想で貫かれている。しかし、もはやオフィシャル一辺倒ではパブリックなものとして認知されにくい時代になった。その典型例が住基ネットだろう。パブリックの概念が希薄になったというよりも、変わってきたのだ。パブリックな機能の担い手は国家に限られない。また、日本国籍をもつ人だけが強制的連帯の仲間なのでもない。
(以上2点「「パブリック」の概念と住基ネット」Glocom主任研究員砂田薫氏 より))<太字部分はo_keke_nigelによる>

パブリック/公共性→オフィシャル(国家-政府)/コモン(共通性)/オープン(開放性)の3つのレイヤー、そして日本社会の伝統的な公共性観は「オフィシャル」に偏したものとなっていたのでは、という指摘である。ここで、もう一度前回記事(3) それもまたパブリックな私での一フレーズ、「うん、だからな、それもまた”パブリックな自分”やねん」に戻ってみよう。

ここでいう「パブリックな自分」とは……もちろん「オフィシャル」な場での自分ではなく、「コモン」かつ「オープン」な場における自分、ということである。たとえそのコンテンツの内容が「プライベート」な領域に属するものであっても、web空間という「コモン」かつ「オープン」な場で公開され、提示されている以上それは「パブリックな」/「公共性を帯びた」存在なのであって、webに何かを公開する、ということは、そういう場において「見られている自分」を意識することでもある。

ここで、「覚悟」であるとか「~べき」というフレーズをあえて使わずに「意識すること」という表現にしたのは、この「パブリックな私」という概念をあくまでもニュートラルなものとして提示しておきたいからである。また、「パブリックな存在としてコンテンツを公開すること」とは何らかの立ち振る舞いのあり方を求められることでも確かにあるのだが、一方で強調しておきたいのは、まず「マナーの強要」のようなものを意識するのではなく、「様々な趣味性向と考えを持つ人々が入り混じり、共に存在している」空間に身を置いていること、そしてそういう空間で「見られている自分」を意識し、自らの個人情報のコントロールをも含めて自らの在り様を考え、設計していくのか……を意識することである。

そこで、一番最初の論考のテーマに戻って、では「個人情報」のコントロールはどうすればいいか……答えは一つ、ではないと思う。個人の写真を公開しなければいいのか、それだけではない。逆に公開したからすべてが間違い、というわけでもない。個人情報を特定される事柄を書かなければいいのか……「絶対安全なもの」を、と考えていけば結局は何も書けなくなる。ならば「覚悟」を決めればいいのか……そういう「ロマン主義」から他者も巻き込んだ大事になることもあるだろう。

「書くこと」は怖い。「表現すること」は怖い。

自分だけでなく周囲の人の個人情報をも同時に、不用意に晒してしまうこともある。表に出した「プライベートでも実はパブリックな」自分が制御不能の他者として一人歩きしてしまうこともある。またあるいは自分の個人的な考えをパブリックな場で不用意に可視化してしまうことによって、他者を傷つけてしまうこともあるだろう。

でも「書くこと」は楽しい。「表現すること」は楽しい。

公開した自分の思いが他者のまた別な思いとつながり、発展し、また別のものを生み出していく瞬間に立ち会える嬉しさ。「同じであること」だけでなく「差異によって」も自分と他者はつながっていること、を確認できたときの喜び。

「書くこと」「表現すること」の光とハゲ……それでは私のハンドルになってしまうが、光と影、その両面にどのように関わっていくかをこれからもいろいろなケース・スタディの中で考えていきたいと思っている。


もとよりまとめやすそうでまとめにくいテーマを、きれいにまとまりをつけたとは言いがたい結論であるが、これで「4つのメモ」のシリーズを終わりとしたい。