▼これもまた「コンプライアンス」?

日教組(JTU)全体集会拒否事件」と「コンプライアンス」について





「事なかれ主義」と「コンプライアンス」は違うし政治的ロマン主義のダシでもない。私は一度JTUの予約を受けながら、後出しじゃんけんで拒否したホテル側の行動には「コンプライアンス」を見いだせない。
(◎はてなブックマーク -私たちは裁判所の決定よりも顧客と地元を尊重するでの私のブクマコメント)

私が言及させていただいた(1)と(2)以下の補足記事やブックマークコメント、そして関連エントリを再度精読させていただいた。その中で、(1)(2)について、元々想定されていた「本筋」から外れたコメントを付けてしまったことをまずお詫びしたい。と同時に私のブクマコメントについて言葉足らずの部分を補足させていただきたい。

私が当該のホテルを「擁護」しているように読めますか?
(3)◎思想ロンダリングと威嚇ロンダリング - 地を這う難破船より

えー……よくわからなかった、というかどっちなんだろう、というのが正直なところだった。ただもう一度sk-44さんのエントリと関連エントリを読む中で、この一連の論考の中で問題とされているのは……ホテルと日教組の関係は契約の自由に基づく民民関係であって、ダイレクトに憲法の「思想/表現の自由」に帰するものではないけれども、思想問題を背景とした威嚇的行動が契約の自由に影響を及ぼし、その前提を覆しかねないことである、と読み取れた。

その論旨には同意であって(ダイレクトな憲法関係ではないが、まったく無関係でもないと私自身は考えるが)、この事案は、特定の「好ましからざる集団/団体」をある種のお為ごかしの理屈でもって排除することが可能であることを示した点で格好のケース・スタディになっていると私も思う。

ただ、本旨から外れていることは承知の上で、最初に私が付けたブクマコメントについて、もう一度振り返っておきたい。

コンプライアンス」については、上の記事一覧にも挙げたとおり、昨年の12月に(7)のエントリを書いた。

ここでは、横浜桐蔭大学の郷原教授が提唱されている「フルセット・コンプライアンス」論についてまとめている。一般的に「法令遵守」と解されることの多い「コンプライアンス」という概念について、単に法令を杓子定規に守ることではなく(守らなくてよい、ということでもない、もちろん)、法令に対する理解を含めて「社会的に要請されているもの」を読み取り、対応・実践していくことが必要である、という趣旨だった。

とはいえ。民民関係であって憲法問題ではない。日本は法治国家であるが、ホテルマンの矜持は遵法精神にはない、顧客と地元の尊重に在る。別に日本の問題ではなく、イタリアとか覿面にそう。
(中略)
現在において、大店の格式にはコンプライアンスも含まれること、イタリアも同様ではある。
◎私たちは裁判所の決定よりも顧客と地元を尊重する -地を這う難破船より

私がそのとき考えたのは次のようなことだった。

*「裁判所の決定に従うこと」「法令を遵守するかどうか」だけがコンプライアンスの有無を決定付ける、というわけではない。
*むしろ「ホテルマンの矜持」=「顧客と地元の尊重」こそがパブリックな社会的存在であるホテルとしての「コンプライアンス」だと思う。
*一度予約を受け付けた以上、日教組(JTU)は「守るべき顧客」には含まれないのか?
*「ホテルマンの矜持」というのなら、「右翼団体」の騒ぎを理由として「顧客を守る」というのはむしろ「言い訳コンプライアンス」なのではないか。そもそも「右翼団体」の騒ぎにJTUが責められるべき落ち度がないのだから。


今の時点で、関連する色々なエントリを読む中で気になった点がいくつかある。

まず1点目。

(6)でhokusyuさんが重要な指摘をされている。
ホテル側のコンプライアンスどーなってんのという論点は、確かに一番ツッコミどころがあるし、恐らくそこに的を絞って議論すれば負けはしないだろう。ただし、それは「じゃあ最初から契約しなければよかったんですよねー」という逃げ道を用意するという点で、次の排除に対して荷担することになる。
◎「民民関係」と排除の論理 -過ぎ去ろうとしない過去

契約前にホテル側が「混乱を予見して」契約を拒んだ場合、JTUは「守るべき顧客」ではそもそもなくなってしまう。確かに「契約以前」の話なら、コンプライアンス論では対応しきれない。が、私としては、契約するかどうか、という部分も含めて「それもまたコンプライアンス」だと考える。というのも、コンプライアンスという概念を、根本的な行動原理という意味での「倫理」と考えるならば、また民間企業といえども、その活動に「社会的存在」としての公共性を見いだすならば、今回の「拒否事件」はまさにそういう意味でのコンプライアンスが問われたケースだからである。

次に2点目。

わたりとりさんがこの問題について続けていくつかエントリーを書かれている。


1点目とも関連するのだが、わたりとりさんは、上に挙げたエントリの中で、「コンプライアンスのジレンマ」について指摘されている。

「ある顧客」との契約の履行が「他の顧客」への価値提供を阻害する、と明らかになったとき、どうしたらよいのか。自社の業務を越えて、他の顧客と地域社会とに損害を与えることが明らかになったとき、どうしたらよいのか。顧客に対しては他の施設を紹介するなどして代替案を示せるとしても、地域社会に対してはどうしたらよいのか。
私には『正解』が判らない。
(中略)
その価値を守り抜くことは、彼らにとっては「顧客との契約を履行する」という意味でまさしくコンプライアンスの領域に入る話であって、本件は、そういった「法令遵守」の枠を越えた意味合いでのコンプライアンスが内部でジレンマに陥ったものと私は感じる。
◎#03.「組織」という主体への要請-日教組全体集会拒否事件について

私の「コンプライアンス」に関する問題意識-「パブリック(公共性)な」存在としての組織のあり方-にひきつけて言えば、「パブリック」という概念に「オフィシャル/コモン/オープン」という3つのレイヤーがあるのに対応して、それぞれ「コンプライアンス」があるのではないか。

だから「コンプライアンス法令遵守」とは「オフィシャルのレイヤー」に関するものであって、あと「コモン」「オープン」に関わるコンプライアンスとは何か……というとそこが現実の行動規範としては、一義的には割り切れない悩ましいところだと思う。その中には優先度の判断がどうしても出てくることがある。ならばそれをどういうロジックで説明できるのか。



オープンネス、はまあ、情報開示の範囲とその基準の明確化といったところかな。
「コモン」領域が一番悩ましいです。そこのコンプライアンスの中核は「基本的人権の尊重」と「フェアネス」になるだろうか(もう一点足すなら「環境保護」か?)、と感じますが、
( http://h.hatena.ne.jp/cometori/9245599902878217015 より)

確かに「コモン」とは、多義的で重層的であり、それゆえ、ある人にとって「コモン」だと思われるものがまた別の人には単なる押し付けにしか思われないことも多々あるだろう。しかしながら、この部分が「コンプライアンス」を考える上で一番のコアとなるところであり、だからこそ「オフィシャル」と「オープン」各レイヤーのコンプライアンス(法令遵守と情報公開)が併せて必要とされるとも考えられる。

この問題を「コンプライアンス」の観点から考えるのには確かに限界がある。しかし、コンプライアンスを企業ガバナンスの観点からだけではなく、「公共空間論」の視座から捉えるならば、この問題についてさまざまな論者からエントリーが挙がったように「それぞれにとってのコモン、と思われること」をその前提条件も含めてつき合わせていく作業をとにかく繰り返すしかないと思う。つまり、迂遠であっても「対話」を繰り返す、また対話可能性を常に確保していくしかないと思う。