「公共空間」と「人権」~「図書館ホームレス問題」から(1)


(1)のブックマークにクリップした記事図書館がホームレス排除に苦心しているとかいう件についての私からの提案(Romanceさん)を発端として起こった「図書館ホームレス問題」についてのメモ。

この議論が「差別と人権」の問題にまで射程が延びていることは論を待たないと私自身は考えるが、「公立図書館」という「公共空間」をめぐっての問題であるだけに、関連エントリを読む中で、やはりそれぞれの論者の公共空間観が見え隠れしている。また、改めて感じさせられたのは、その公共空間観が「差別と人権」に対するスタンスと根の部分で密接に繋がっているということだった。

「公共(パブリック)」とは何か……まず頭に浮かぶのはその「オフィシャル性」だと思われるが、▼web空間における「パブリックな私」を考える4つのメモ(4)webという公共空間と私で以前整理したとおり、「公共(パブリック)」には「オフィシャル性」だけではなく、「オープン」と「コモン」の3つのレイヤーがある。先日「はてなハイク」わたりとりさん(id:cometori)のidページ書かせていただいた内容と重なるが、補足しつつ再度書いておきたい。


【1 「オフィシャル」のレイヤー】

この観点から考えると、一般論としては「図書館とは本を読んだり借りたり、あるいは調べ物をするところ」に尽きるだろう。実際日本の図書館法(wikipedia)では「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設」(第2条)と規定されている。これはまずこの問題を考える上での前提の一つで、だからこそ「(その体臭や”迷惑行為”を理由にして)ホームレスを図書館から一方的に排除するのはおかしい」という観点からいろいろと言葉を尽くして論じても「でもさ、そもそも図書館って本読むところだろ?」的な反応が繰り返し何度も出てくることになる。しかしながら、この観点にのみフォーカスを当てて「公共空間としての図書館」を考えてしまうと、線引きの問題のみに収束してしまうことにもなる。ありていに言ってしまえば、息が詰ま
ってしまうのだ。

上の「参考文献」(1)の中で、図書館で居眠りをしていたら警備員に起こされた…といったブックマークコメントを目にした。大いびきをかいていたのならともかく、ちょっとうたた寝したくらいで「本来の図書館の利用ではない」とたたき起こされる、ということだったのなら私は正直ご免被りたい。


【2 「オープン」のレイヤー】

というのも、図書館という公共空間とは、同時に「誰にでも開かれている」オープンな空間もであって、また、本を読んだり借りたり調べ物をしたりすることは主であっても従であってもいいはずだからだ。公共空間において、「あなたのためのもの」は同時に「私のためのもの」でもあり、「私のものでもあなたのものでもみんなのもの」である公共空間とは、文字どおり様々な人々が同時に存在する空間である。そもそも「公共空間」とは、「快適な理想の空間」などではなく、自分にとって都合のよい人々ばかりで成り立っているわけではない。自分にとって「必ずしも望ましくない人々」も自分と同じくフラットな立場で同じように共存しているのが「公共空間」である。平たく言えば「お互いさま」ということだ。その中で、時にはお互いに争うことがあるにしても、「私のものでもあなたのものでもみんなのもの」である空間の中でいかに共に存在し続けられるかを模索していく必要があるはずだ。

このレイヤーに対する視点が欠けていると、自分にとって「不快」な存在は、「まず排除されなければならない」というメンタリティに陥ってしまい、その根拠はいきおい「オフィシャル性」に求めることになる。「自分の気に入らないものは消してしまえ脳」が「オフィシャル性」のレイヤーと直結してしまうと、「公共空間の私物化による消滅」(つまり「オフィシャル性」の僭称)はすぐそこである。また、「参考文献」(1)の中に「この問題は”差別”とは関係がない(あるいは薄い)」旨の記事がいくつか見られたが、この「不快感至上主義」が「オフィシャルのレイヤー」をいわば簒奪していく過程の中で、修正不可能な偏見が形成され得ることを考えれば、やはり「差別」をめぐる構造とこの「図書館ホームレス問題」は決して無関係ではない。


【3 「コモン」のレイヤー】

ならば、図書館、その他の行政セクター、多種多様な利用者……の共通認識としての「図書館」とは何であるか、「共通認識」と言うだけなら簡単だが、現実の事案の中ではこのレイヤーにおける共通認識や合意の形成が非常に難しいのもまた確かである。例えば、(1)にクリップした記事「山口真也 - 山谷労働者と公共図書館 」の事例を見れば、「合意の形成」という言葉が空しく思えてしまうほどの生々しさである。また、現場のライブラリアンの視点から書かれた「図書館はあなたの家ではありません - The best is yet to be.」(rajendraさん)と併せて読めば、限られたリソースの中で現場の図書館関係者の方々が苦闘されている姿が伺える。まずこの「厳しい現実」を押さえておかなければいけないと確かに思う。

ただ、このレイヤーで何度も何度も「話し合う」ことが、人が人を致命的に傷つけることのない公共圏を作るために必要なことである、とも思う。こう考えていくと、図書館にも女性専用席 ホームレス対策…「不公平」の声も(産経新聞) - Yahoo!ニュースで図書館側が「女性専用席」を設けることによって対応した、というのはやはり「下策」だと考えざるを得ない。いや、図書館の対応がまずいから、差別的だから、ということではなく、図書館側だけに対応をさせればこうなるしかないのだろう、という意味において。この問題を「公共空間」の問題として考えるのであれば、図書館関係者のみに「当事者性」を負わせて対応を任せるのではなく、他の公的セクターも含めて関係する多様な層の人々が「コモン」のレイヤーに集い、コラボレーションを目指して色々な利害や考えを突き合わせ、すりあわせてしていくしかない。

先に触れた「山谷労働者と公共図書館」の中でも、筆者山口進也さんはこのように書かれている。

確かに、山谷労働者の多くは、図書館とは無関係の目的を持つ利用者であった。しかし、そうではあっても、労働者と図書館はかつて一度は接点を持ったのである。図書館員は、山谷労働者が図書館の本来の機能を理解しないまま離れて行くのをただ喜んで見ているだけでよいのだろうか。筆者は、図書館が山谷労働者に対してできること、やらなければならないことはまだまだあるはずだと考えている。その一つの事例として、本稿では、労働者への総合的な政策の中に位置づけられた釜ヶ崎地区での図書館活動を紹介した。問題点はあるが、労働者に対する図書館活動の一つのあり方を示すものとして学ぶべき点もまた多いのではないだろうか。

本当の意味での山谷労働者に対する図書館サービスが議論されることを期待して、本稿はひとまず筆を置きたい。
(強調部分はo_keke_nigelによる)

全く「公共」とは色々な意味で「コスト」の掛かるものだと思う。ただこの一見迂遠にも思えるプロセスこそが「民主主義」の本旨であると私は考えたい。


[4 「オフィシャル性」の再定義]

ここまで、私は「図書館ホームレス問題」を「公共空間」としてのあり方-「オフィシャル/オープン/コモン」という3つのレイヤー-という視座から考えてきた。

このテーマのコアになる部分はむろん「公共」の問題のみに集約されるのではなく、路上での生活を余儀なくされているホームレスの方々の「人権」の問題にあることは言うまでもないのは冒頭でも述べたとおりである。ただ、その人権問題を考える過程で、「本を読んだり借りたり、調べものをするところ」と一般に考えられている図書館の公共空間性に「揺さぶりをかける異質な他者」として路上生活者の方々が現れたところに着目し、敢えてその「公共空間性」の側に焦点を当てて考察し、その点から「ア・プリオリに排除すべきではない」ことが確認できるのではないか、と考えた。ともすれば「オフィシャルのレイヤー」がクローズアップされがちな(特に日本の)公共空間性に対して、「オープン/コモン」という別のレイヤーをつき合わせてその「オフィシャル性」を再定義する過程を通じて「異質な他者/異文化にある人々」との交流と共存の重要性が浮かび上がり、そしてこここそが「わたしとあなた/あなたとわたし」が共に生きるための前提としての「人権」を定義付けるポイントとなる。

そのためには、とりわけ「コモンのレイヤー」でのさらに詳細な考察(様々な先行事例や合意形成の実例を知ることも含めて)が必要であることは言うまでもない。しかし、上の「参考文献」の(2)、わたりとりさんのエントリーを読む中で、このアプローチにはまた別の「難しさ」があることも痛感した。その辺りについては、Y!Bの字数制限の関係もあるので、稿を別に改めたい。